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2565 字
13 分
ファスト教養について
目次

Rant#

私が言及したいのは、友人たちが語る、あるインフルエンサー(あるいは組織?チャンネル?)についてです。見たことがないので、実際のところは全く知りません。それ故、以下の全ての記述は藁人形論法です。たぶん伝聞の過程で色々とねじれて伝わってるものと思われます。

最近、友人たちと話していると、やたらとそのインフルエンサーの話題が出てくるのです。記憶している限り、そのインフルエンサーについて言及した友人の数は今日で4人となりました。

私の友人の数は決して多くないので、これはかなりの異常事態です。鬼滅の刃ほどではないがフリーレンくらいには流行っている様子。

もちろん、誰が何を好むかは全く自由であるべきだし、私が文句をつける筋合いは一切ありません。というか、それだけ多くの友人が言及するならば、自分もちょっと興味を持ってみるべきです。そもそも、見ずに批判するなんて一番良くないことです。

しかし腹が立つのは、友人たちの影響の受け方なのです!!!!

友人たちと深くて賢そう(?)な話をしていると、しばしばそのインフルエンサーが引き合いに出されるのです。

ファスト教養は無知の無知を量産する#

「<インフルエンサー>曰く」と明確に引用してくれるならまだ良いものの、問題は、引用の形を取らずに自分の意見のようにそれを語ってくるケースです。

自分の聞いたことない概念とか名前がぞろぞろ出てきて話が面白くなってきた!と思ったのに、いざ深堀りすると、「実は<インフルエンサー>が言ってただけだからよくわからないんだよね」となって話が終了してしまうケースが頻発していたのです。

これの何が腹立たしいかというと、友人たちは<インフルエンサー>の話を聞いただけにも関わらず、あたかも自分がその話題を理解したかのように誤解している点です。

もし<インフルエンサー>が本物の教養を提供することを目指しているならば、そのような無知の無知が広まる事態は避けようとするはずです。しかし、現実にはそうなっていません。

一人ならまだ、そいつの受け取り方に問題があるという話で済みます。しかし複数人にこれが起きているとなれば、そのインフルエンサーのやり方に何か問題があるのではないか、と考えても仕方ないでしょう。なので、私は食わず嫌いをしています。

本来、新しい概念や知識に出会うというのは、「世界ってこんなにわけわからんものなのか」という健全な打ちのめされ感のようなものを伴うべきです。そこから自力で調べたり、原典を読んだりした結果、元々紹介されていた形とは必ずしも一致しない、「影響は受けているが自分なりの理解を経た知識」となることが面白いはずです。

要は知識とは、自分の歯で噛んでようやく血肉になるものであって、単に雑学を知っていれば偉いというものではないはずなのです。

そうでなければ、その知識はどこにも接続しない孤立ノードになってしまいます。隣接するが自分の知らない領域へ話が進んだときに、推測する材料も意志も無いので、「実は受け売りだから何もわからないの」となってしまう。もし他の知識と接続されていれば、「少なくとも自分はこう理解している」くらいは言えるはずだし、それが聞きたいのに!!

臨界点#

ここからはニーチェ先生風味で行きます。

私が我慢ならなくなった決定打は、その人が本を執筆したと聞いたからだ!いや、別に本を執筆することは構わないし、立派なことだ。

しかし腹立たしいのは、その動機である。実際のところは知らないが、少なくとも友人の伝聞によれば、その人は「人生のボラティリティを下げる」ために本を書くことにしたらしい。つまり、「売れなければ文筆業の夢を捨てられるから」本を書いたのだという。

私はこの発言にあらゆるレイヤーで吐き気を催した!!

まず、失敗すれば文筆業の夢を諦められるから本を書くとは一体何事か。執筆を目的ではなく手段として扱うどころか、あまつさえそれを「夢を諦める」ことの手段としているとは。そんなに執筆したくないなら、執筆することをやめてみたらどうだ!

次に、この発言の計算高さ、これにも腹が立つ。前述の通り、このインフルエンサーはそこそこの影響力を持っているらしい。この発言がなされたのも、ポッドキャストの中でのことだったという。つまり、この発言は単なる自己開示ではなく、宣伝の一環として捉えるべきだろう。

そしてその宣伝手法として採用したのが、「これが売れなければ執筆はもうしません」という手法である。もし本当にそんな意図で語られたのだとすれば、ファンに対して、自身の活動の範囲を人質に取ったようなものだ。そんなの、臆病なふりをしたマーケティングじゃないか!

そして最も腹立たしいのが、おそらく多くのファンたちが、この発言に何の違和感も抱かず、「大人びた/現実的な/賢い」判断だと称賛しているのだろうという点だ。少なくとも、この話を私にしてくれた友人は、そのような意見を持った上で、「大人になる」ということの一つのロールモデルとして示してくれたように思う。

しかし、そんなものは教養でも科学でも学問でも賢さでもない!

というのも、恐怖。──それは俺たちにとっては例外だからだ。だが勇気と冒険、不確かなものや試されたことのないものへの欲望。──俺には、勇気こそが人間のすべての前史(これまで歴史)だと思える。

もっとも野生で勇敢な動物たちから、人間はすべての徳を嫉妬し、奪い取ってきた。そうやって初めて、人間は──人間になったのだ。

この勇気が、ついには洗練され、精神的で、知的なものになった。この、ワシの翼と蛇の賢さをもつ人間の勇気。それが、俺が思うに、今日では──

ツァラトゥストラだ!が、そもそもこれはヒルの学者が「恐怖から科学は生まれた」と述べたことに対する反論だから、これは科学とは何かに対するツァラトゥストラの答えでもある。

思うに、この態度こそがファスト教養の核心かもしれない。ファスト教養系インフルエンサーと、その言葉をありがたがる者たちは、本当の意味での科学や教養なんて求めてないのだ。

そういった人たちが「学ぶ」のは、知らないのが怖いからだ。しかもその恐怖の対象は、木の陰に潜むヒグマのような上等なものではない。赤点、不合格、他者に無知とみなされることを恐れているのだ。だから、そもそも対象を理解しようとすら思っていない。

だから、「サピア」の三文字を聞いて「サピア=ウォーフの仮説」と回答する者の方が、「サピア=ウォーフの仮説」と聞いて「toki pona」と聞き返す者よりも上等なのだと信じている。会話の早押しクイズ化といっても良いかもしれない。そして、私の友人たちをそのようにしてしまったが故に、私は憤慨しているのだ!

オフセット#

繰り返しますが、本を書いたのは立派なことです。しかもその間、他の活動や交友を絶って執筆に専念したというから、その努力は間違いなく称賛するべきものです。私が怒っているのは、どうしてその動機を「人生のボラティリティを下げるため」なんて言葉で貶めてしまったのかという点です。

本を書きたいから本を書きました、すごく頑張ったから是非買ってください、と素直に言えばいいじゃないか!斜に構えることが良いことであり、多くの人が学ぶべき大人の姿勢であるかのように語られるのは、個人的には間違っていると思います💢

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