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6578 字
33 分
ニーチェ『ツァラトゥストラ』は限界独身男性の統失ブログ
目次

約2週間かけて『ツァラトゥストラ』を読んだ。読書メモをまとめようと思ったのだが、言葉にするのが困難で1週間くらい放置してしまっていました。

が、気づいたことを残さないのは良くないと思ったのでまとめます。

全体的な感想#

ニーチェは限界独身男性だし、『ツァラトゥストラ』はニーチェが書いた統失ブログのようなものだ!なので、ある意味では非常に読みやすかった。これは訳が良かったというのもあるけど。

たぶんニーチェが現代に生きていたら、爆発的にフォロワーとアンチを稼いだ後に炎上発言をして消えるか、はてな匿名ブログあたりに怪文書を投げまくってただろうと思う。問題は、ニーチェは化け物じみた天才かつ教養人だったので、彼の大胆な思想や発言は驚異的な予測力を持ってしまったということだ。

ツァラトゥストラを矛盾や瑕疵なく要約する試みは全て失敗に終わるだろうし、失敗するべきだと思う。めちゃくちゃ良い音楽を聞いたが、それを言葉に変換して魅力を伝えるのは困難なんだよなという感じ。これが、感想文を書けなかった理由の一つでもある。なのでこの記事では、そのようなことは行わないことにする。

ニーチェが不憫でならない。ツァラトゥストラを盲目的にフォローすることや、彼の言葉が誤用されることについてしっかり警告していたにも関わらず、まさにそのようなことが起きている。少なくともツァラトゥストラのテーマは、強くなることや自己研鑽をすることではない…と思う。

永劫回帰について#

第一部、第二部でひたすらニーチェの嫌っているものについて悪口を言ったと思ったら、第二部の終わりに不吉な予感を漂わせつつ、第三部でついにいわゆる『永劫回帰』について語られる(このForeshadowingには、チャイ5の第三楽章の終わりに近いものを感じた。やっぱりツァラトゥストラは音楽なのかもしれない)。

あらゆる物事のうちで走れるものはみな、すでに一度はこの道を走ったことがあるはずじゃないのか? あらゆる物事のうちで起こりうるものはみな、すでに一度は起こり、実行され、通り過ぎていったはずじゃないのか?

そして、もしすべてがすでに存在したことがあるのだとしたら。小人よ、おまえはこの瞬間をどう考える? この門だって、すでに──存在したことがあるはずじゃないのか?

何故この発想に至ったのかといえば、たぶん以下のような論法があった…はずなのだが、ピッタリの記述を見つけられなかった。

  1. 時間は無限である。
  2. 宇宙(で起きる出来事)は有限である。
  3. ゆえに、全ての出来事は無限に繰り返される。

そしてこれこそがニヒリズムの究極の地点であり、永劫回帰の事実を認めて、それでも世界を楽しむぞ!ということが「力への意志」ということになるのだが、多くの人は永劫回帰の恐ろしさをちゃんと理解できていない気がする。

これは単に「人生には良いことも悪いこともあるけど全部肯定しよう」というレベルの話ではなく、広い意味での自由意志の否定だと思う。

ゲームで考えるとわかりやすい。どんな選択をしても、結局それは事前に定義されたシナリオの一部に過ぎない。そしてゲームであれば、「私はこのゲームの体験から基底現実にこんな教訓を持ち帰った」と意味を見出すことができるが、死後の世界を想定しない限り、基底現実から何かを「持ち帰る」ことはできない。それがこの世界の無意味さということなのだと思う。

これについては、私が以前に書いた以下の境地がかなり近いかもと思った。

原神の会話中に表示される選択肢は、全く無意味であることで悪名高い。運が良ければ直後の一言が変わる程度で、結局どれを選んでもその後のシナリオに全く影響を与えない。すべてのプレイヤーが、同じ物語の道を歩むのだ。

しかしそれでも、ゲームはプレイヤーに選択肢を与える。全体の流れは変えられなくとも、その瞬間にプレイヤーが感じたことを、旅人に語らせることはできる。

楽観的ニヒリズムについて#

私のここ数年の精神を支えてくれた思想として、以下の動画で紹介されている『楽観的ニヒリズム』という概念がある。

要は、「宇宙の巨大なスケールからしたら、一人の人間が何をしようとどう思おうと誤差に過ぎない。であれば人生楽しんだほうが良いじゃないか」というものだ。

しかし、これはニーチェの言うニヒリズムとの向き合い方の弱体化バージョンと言えるかもしれない。

スケールの側面で言えば、楽観的ニヒリズムが想定するのは有限の時間であり、ニーチェが想定するのは無限の時間だ。また、どう向き合うかについては、楽観的ニヒリズムは「せっかくなら楽しもう、人類のためになることを成し遂げられたらボーナスポイント」というスタンスであるのに対し、ニーチェは「無意味を受け入れて笑い飛ばせ」と言う(気がする)。

ルサンチマンについて#

つい先日、横断歩道を渡っている際に、車が止まらず進んできて危うくぶつかるところだった。危ないじゃないか!本当にぶつかってたらどう調理してやっただろうか!とモヤモヤしたが、この発想はニーチェ先生に怒られる類のものであり、このモヤモヤこそがニーチェの言う「吐き気」なのではないかと気づいた。

「ルサンチマン」にもっとも近い概念は「被害者意識」なのかもしれない。ツァラトゥストラは、徹底的に能動的であること(あるいは、決して受動的にならないこと)を求めてくる。

例を挙げてみる。昔から友人達と意見が合わないテーマとして、いじめの問題がある。私は「いじめの責任は100%加害者にあるが、だからといって被害者に原因がないということにはならない」と思っている。

加害者達がサイコロを振ってターゲットを決めているのであれば話は別だが、多くの場合そうではない。因果関係まで「完全な不可抗力」として否定してしまうのは、相手を無力な被害者へ貶めることになる。

もちろん加害者側は傷害罪なり何なりできっちり罰するべきだと思うが、それはそれとして、被害者にならないルートを選べた可能性を否定してしまうのは、それこそ救いのない、よっぽどひどい話だと思う(のだが、この理屈を分かってくれる人は多くない…)

上記は極端な例だが、とにかく、「これは自分にはどうしようもないことだ」と受動的になることで物事が上手くいくことは基本的に無いと思う。ここから更に進んで、「私には力があり、私は世界に対して常に加害者である」という意識を持って初めて、どう生きるかの問題に進めるのだ!というのが、ニーチェ的な教えなのかなと思った。

与える徳について#

ツァラトゥストラの最初も最後も太陽が出てくる。太陽は『与える徳』を体現した存在だ。

誰かに何かを与える時、それは「自分の力が有り余っていて、それが周囲に溢れてしまった」という形であることをニーチェは良しとしている。太陽は地球にエネルギーを与えてくれるが、別に太陽自身はそれを意識しているわけではない。核融合しちゃってそのエネルギーが周囲に溢れ、結果として地球が暖かくなっているだけだ。

これはニーチェが大嫌いらしい隣人愛やカントの道徳律と比較すると面白い。

キリスト教的な「隣人愛」は、「他者のために自分を犠牲にする」という、欠乏や抑圧から出発している。ニーチェから見れば、これは「自分には何もないから、他人に尽くすことで自分の価値を証明したい」というルサンチマンの変種にすぎない。

カントは、「義務だからやる」という形で、行為の動機を重視する。ニーチェから見れば(後にフロムも批判したように)、結局死んだはずの絶対的な神を内面化してゾンビとして飼っているに過ぎない。

私はニーチェ的な発想が一番好きだ。具体例を考えてみよう。例えば音楽を作って、それが周囲に喜ばれたとする。この場合、私は自分の力が有り余っていて、それが周囲に溢れた結果として音楽を与えたことになる。これが『与える徳』の実践だ。

そこには、誰かのために作ってあげようとか、自分の価値がゼロでないと示したいとか、そういった意図は一切含まれていない。単に自分に力があり、やりたいからやった、どうやら他の人も喜ぶものみたいだけど知ったことか!くらいの感じだ。そういうものこそが、本当にあるべきアートの形だと思う。

ニーチェがカントを超嫌っていたのも納得できる。音楽性の違いのようなもので、ニーチェからしたら「神を殺す」という途中までの道は一致していたのに、そこから真逆の結論に至ったのが許せなかったのだろう。

思想史について#

ニーチェは自身をダイナマイトだと言ったらしい。確かに、現代までの思想の多くは、ニーチェが爆破した神の破片を拾い集めているだけという感じがある。

フロムの『自由からの逃走』は、まさに上述したような「せっかく神を殺したのに別の神を立ててしまう」現象を真面目に書き直したものに思える。

フランクルの『夜と霧』では「私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待しているか」を考えろと説かれている。これは、ニーチェ的な「世界は無意味だ、それを受け入れて楽しめ」から、「世界には意味がある、後はそれをどう見つけるかだ」とハードルを引き下げたに過ぎない。

裏を返せば、フランクルだったら「意味は必ずある、生きてそれを見つけろ」と言うだろうが、ニーチェは「無意味さを受け止めて笑う器が無いならさっさと死ね」くらいのスタンスだ。そりゃアウシュビッツでこれをそのまま処方するわけにはいかない。

「生きるということは、悩むことにほかなりません」──と、ほかの連中が説いている。たしかに噓ではない。だったら、そんなことを説いている君たちが、人生をやめてみたらどうだ! 生きることが、悩むことにほかならないなら、生きることをやめてみたらどうだ!

第1部、死の説教者について。

そしてアツいことに、ニーチェ→フロイト→ユング→ジョーゼフ・キャンベルという形で、どうやら思想の系譜も繋がるらしい。何なら『千の顔を持つ英雄』でもニーチェが直接引かれていた気がする(見つけられず)。

ニーチェ先生名言集#

こんなことをしたらたぶんニーチェは大激怒するだろうが、それはそれとして切れ味鋭い言葉が大量にあった。語ること全てが語録という感じ。特に良かったものを取り上げる。

市場のハエについて#

孤独が終わるところで、市場がはじまる。市場がはじまるところで、大俳優の大騒ぎがはじまる。毒バエがブンブン飛びまわりはじめる。

(略)

孤独のなかへ、友よ、逃げろ。激しく強い風が吹いているところへ。ハエたたきになるのは君の運命じゃない。

第一部。上で言及した、アートに関する与える徳の話と近いかも。

クソについて#

世界が人間のようであるという点においては、世界にもお尻(後ろ)があるということだ。──そこまでは本当だ!

世界にはたくさんのクソがある。そこまでは本当だ! だが、だからといって、世界そのものがクソまみれの怪物ってわけじゃない!

世界の多くのものが悪臭を放っていることのなかには、知恵があるのだ。吐き気そのものが、翼を創り出し、泉(源泉)を予感する力を創り出すのだ!

第三部、古い書字板と新しい書字板について-14。もうそのままエフェクトかけまくったギターに乗せて歌ってほしい。

人生ちゃんとのイチャつきについて#

「そうだな」と、俺はためらいながら答えた。「だが、おまえも知っているはずだ。──」 そして俺は、彼女のもつれた黄色いバカげた髪の毛の真ん中にある耳に向かって、何かをささやいた。

あなたがそんなことを知っているの、おお、ツァラトゥストラ? それは誰も知らないことよ。──

そして俺たちは顔を見合わせ、涼しい夕暮れが走り抜けていく緑の草原を見つめ、いっしょに泣いた。──だがそのとき、俺はかつてすべての知恵を愛した以上に、人生(いのち)を愛おしく思ったのだ。──

人生を黄色いバカげた髪の毛を持つ女の子として擬人化し、何か(おそらく永劫回帰の秘密)を囁く。そしてこの後第三部は永遠への愛を7回叫んで終わる。そりゃ出版を拒否られるだろうが、詩的な美しさは極まっている。

深淵について#

おまえたちに勇気はあるか、おお、俺の兄弟たちよ? おまえたちに気骨はあるか? 目撃者の前での勇気じゃなく、もはやどんな神も見ていないような、隠遁者やワシの勇気が?

冷たい魂、ラバ(頑固者)、盲目な奴、酔っぱらいは、俺にとっては気骨があるとは言えない。恐怖を知っていても恐怖をねじ伏せ、深淵を見ても誇りをもって深淵を見る者こそが、気骨をもっているのだ。

深淵を見るが、ワシの目で見つめる者。ワシの爪で深淵を掴み取る者。──そいつこそが、勇気をもっているのだ。──

第4部、より高い人間について-4。Theニーチェ的な引用として、しばしば「深淵を見つめる時、深淵もまたお前を見つめているのだ」が使われる(これはツァラトゥストラではなく別の本の記述らしい)。

しかしニーチェは徹底的に受動を嫌う人だから、そんなことを言うわけは無い…と思っていたらこの記述が出てきた。

「深淵を見つめる時、深淵もまたお前を見つめている。だったら睨み返してワシの爪で引きずり出してやれ!それが勇気だ!」とセットで捉え直せば、意味が180度変わるのではないだろうか。

ダンスについて#

すべての良いものは、曲がりくねってその目的地に近づいていく。猫のように背中を丸め、近づいてくる幸福を前にして内側で喉をゴロゴロ鳴らす。──すべての良いものは笑うのだ。

その歩みを見れば、そいつがすでに自分の道を歩んでいるかどうかがわかる。俺の歩き方を見てみろ! 自分の目的地に近づいている者は、ダンスするのだ。

そして本当に、俺は彫像になんかならなかったし、そこに硬く、鈍く、石のように、柱のように立っているわけでもない。俺は素早く走るのが好きなのだ。

そして、たとえ地上に泥沼や厚い憂鬱があったとしても、軽い足をもつ者は泥を飛び越えて走り、掃き清められた氷の上を滑るようにダンスするのだ。

おまえたちの心を高く上げろ、俺の兄弟たちよ、高く! もっと高く! そして俺のために、足のことも忘れないでくれ! おまえたちの足も高く上げろ、おまえたち良いダンサーよ、そしてさらに良いのは、逆立ちすることだ!

第4部、より高い人間について-17。ニーチェは全編通して「重さの霊」をぶっ飛ばしてダンスすることの大事さを語っているが、それが最も美しく表現された一節だと思う。

科学について#

というのも、恐怖。──それこそが人間の遺伝的な、根本的な感情だからだ。恐怖から、あらゆること、原罪も原徳も説明がつくのだ。恐怖から、俺の徳も育ったのだ。その名は、科学だ。

(略。上記の「ヒルの学者」の発言に対し、ツァラトゥストラ曰く)

俺はたった今、何を聞いたんだ? 本当に、俺が思うに、おまえはバカか、それとも俺自身がバカなのかのどちらかだ。だから、おまえの『真理』を、あっという間にひっくり返してやろう。

というのも、恐怖。──それは俺たちにとっては例外だからだ。だが勇気と冒険、不確かなものや試されたことのないものへの欲望。──俺には、勇気こそが人間のすべての前史だと思える。

もっとも野生で勇敢な動物たちから、人間はすべての徳を嫉妬し、奪い取ってきた。そうやって初めて、人間は──人間になったのだ。

この勇気が、ついには洗練され、精神的で、知的なものになった。この、ワシの翼と蛇の賢さをもつ人間の勇気。それが、俺が思うに、今日では──」と。

「ツァラトゥストラだ!」と、一緒に座っていた者たち全員が口を揃えて叫び、大きな笑い声を上げた。

第4部。「欠乏への恐れから知識を溜め込むことが科学だ」というエニアグラムタイプ5的発想に対し、「勇気と冒険が知的なものになったものが科学だ」と訂正する。

これもやはり、「未知が怖いから知るのではなく、未知が楽しいから知るのだ、結果としてあふれビーカーが他の人に役立つかもしれない」と考えると、さっきの「与える徳」の話と被ってくる。

Ad astra abyssosque#

君たちは高まりたくて、上を見る。そして俺は、もう高まっているから、下を見る。 君たちのうち、笑うことと高まっていることを同時にできるのは誰だ? もっとも高い山に登る者は、あらゆる悲劇を、悲劇を気取った真面目さを笑い飛ばすのだ。

第1部、読むことと書くことについて。

木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はますます力強く、地中に深くもぐりこんでいく。下へ。闇のなかへ。深みのなかへ。──悪のなかへ

第1部、山の樹木について。

もっとも高い山はどこから来るのか? いつか俺はそう尋ねた。そして、それは海から来るのだと知った。

その証拠は、山の岩に、頂の岩壁に書きこまれている。もっとも深いところから、もっとも高いものはその高みへと至らなければならない。──

第3部、放浪者。

種類が高くなればなるほど、それが成功することは稀になる。ここにいるおまえたち、より高い人間たちよ、おまえたちはみんな──失敗作じゃないのか?

元気を出せ、それがどうした! まだまだどれほど多くのことが可能なことか! おまえたち自身を笑い飛ばすことを学べ。どうやって笑うべきかを!

おまえたちが失敗し、半分しか成功しなかったとしても、おまえたち、半分壊れた者たちよ、それがどうしたって言うんだ! おまえたちのなかで押し合いへし合いしているのは。──人間の未来じゃないのか?

人間の最も遠いもの、もっとも深いもの、星のように高いもの、その途方もない力。これらすべてが、おまえたちの壺のなかで泡立ち、ぶつかり合っているんじゃないのか?

壺のいくつかが壊れたからって、驚くことがあるか! おまえたち自身を笑い飛ばすことを学べ。どうやって笑うべきかを! おまえたち、より高い人間たちよ、おお、まだまだどれほど多くのことが可能なことか!

そして本当に、すでにどれほど多くのことが成功してきたことか! この地球は、小さく、良く、完全なものたち、うまく成功したものたちで、なんて豊かなんだろう!

おまえたちの周りに、小さく、良く、完全なものたちを置くんだ、おまえたち、より高い人間たちよ! それらの黄金の成熟が、心を癒してくれる。完全なものは、人に希望を教えてくれるのだ。

第4部、より高い人間について-15をまるまる抜粋。

ニーチェは、「本当に高みを目指すならば、星だけでなくまず深淵を見なければならない」と何度も言っている。特に、より高い人間について-15の記述は史上最高にアツい激励だ。

何度でも引かせてもらうが、ニーチェの主張は、重さの霊をからかい、ダンスすることを知る神の言葉と一切矛盾しないと言えるだろう。

Traveler, as you set off on your journey once again, you must remember that the journey itself has meaning.

The birds of Teyvat, the songs and the cities, the Tsaritsa, her Fatui and the monsters… they are all part of your journey.

The destination is not everything. So before you reach the end, keep your eyes open. Use the chance to take in the world around you…

星と深淵を目指せ!

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