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つまらなさの自己責任論とニーバーの祈り
目次

私がほんのりと好きな言葉というか概念として、「この世界につまらないものは存在しない」というものがある。

例えば旅行に行って、旅行先がつまらないと感じたとする。しかし「この世界につまらないものは存在しない」という前提に立てば、つまらないと感じるのは自分の知識なりセンスなりが不足していて、その場所が本来持つ魅力を理解できていないことが原因だということになる。全く妥当だと思う。

あるいは、「シェイクスピアはつまらない」と言う人がいれば、やはりまず疑うべきはその人の知識や教養ということになるだろう。これもまあ妥当な気がする。読んだこと無いけど。

私がこの概念を好きなのは、世界を楽しむために自分の知識やセンスを磨こう、というモチベーションを与えてくれるからだ。何かをつまらないと感じるときは大抵ヴァイブス(あるいは脳のなんらかのホルモンの分泌量)が落ちていて無気力なことが多いが、「つまらないわけがない」と思えば、その土地の歴史に触れてみようとか、シェイクスピアの時代の生活様式を調べてみようという気持ちになれる。

しかし一方で、この考え方は扱い方を誤ると極めて悪質な自己責任論に変化するかもしれない。

例えば、現在のコンカフェとトレカショップに覆い尽くされた秋葉原はつまらない、と思う。もちろん、コンカフェやトレカ文化を理解していないことが原因の一つなのは明らかだが、前述の例と比べると何か妥当さに欠ける気がする。しかし、秋葉原は街の一つであり、これはさっきの「つまらない旅行先は存在しない」という言葉とは完全に矛盾してしまう。

もっと悪質な例で言えば、「今の仕事が面白くないと感じるのは君の能力が欠けているからだ」なんて言ったら、これはもう完全にパワハラだ。完全に間違いであるとも言えないが、正しくない要素が大きすぎるように感じる。

これらを切り分ける必要がありそうだ。

自己責任論は人に押し付けるものではない#

一番最後の例が仲間はずれである理由は明確で、自己責任論を人に押し付けているからだ。これがもし、「今の仕事は面白くないから面白くする方法を考えよう」という本当に自発的な自己責任論であれば、むしろ建設的な考え方だと思う。

しかし、「本当に自発的な」というのは、とても難しい概念になりそうだ。社会的な圧力に押し負けて上述のような考え方を持たされているとしたら、それはもはや「やりがい搾取」であり、自発的とは言えない。フロム的なオートマトン化、つまり社会的な要請を自分の意思であるかのように錯覚しているに過ぎない。

だとすると、「シェイクスピアがつまらないのは教養がないからだ」という考え方も、「教養を身に着けましょう」という社会的な要請を内面化しているに過ぎない、という論が通ってしまう。しかし、それは流石に正しくないような気がする。もっと切り分けが必要になりそうだ。

変えられない世界と変えられる人工物#

対象物の性質で判定するのはどうだろうか。街やシェイクスピアにあって、秋葉原や仕事に無い(or vice versa)ものは何だろう。

色々考えた結果、「受け手を操作する意志の有無」というのが、かなり良い分割境界を与えてくれるように感じた。

仕事は労働力と金を交換する契約であり、「仕事を楽しいものだと思え」というのはつまり、労働力の値段を引き下げるという意図を持った発言になる。秋葉原のコンカフェやトレカショップも、「秋葉原は楽しいものだと思え」というのは、コンカフェに金を落とせということになる。

一方で、街の歴史自体は、私に何らかの行動を促す意図を持っていない。町おこしとして歴史をアピールしている場合には、それは私にその街を好きになってもらうなり観光客として金を落としてもらおうという意図を持っていると言えるが、歴史そのものは私に何かを強制することはできない。

シェイクスピアも、書いた当時は観客に金を落としてもらうことを意図していたかもしれないが、数世紀後の黄色人種に何らかのCall to actionを残すために戯曲を書いたわけではないだろう。

要は、「これがつまらないわけが無い」と考えた時に、自分以外の誰かが得するか否か、というのが、自己責任論が悪質なものになるか否かの判断基準になりそうだ。

考えてみるとこれは当然で、自分が自分自身に自己責任論を押し付ける場合、客体としての自分が損しても、主体としての自分は得をする。正常な判断ができるのであれば、そのシステム全体で損が得を上回るような押し付けはありえない。

芸術と創作物#

結局、この議論も「アート vs クリエイティブ」という話にたどり着くのかもしれない。少なくとも私の中では、アートとは自分のために作るもの、クリエイティブとは誰かのために作るもの という定義をしている。

私は、道路標識や最新のスマホに膨大な知識やセンスが注ぎ込まれていることは認めるが、それがアートであるとは思わない。誰かに情報を伝え、ある意味では操作しようという意図があるからだ。これらはクリエイティブであり、初めからターゲットとなる「誰か」の感情や行動を操作するように設計されている。

クリエイティブに対してつまらなさを感じたなら、それは自分の教養が足りないからではなく、「作り手の意図に乗せられることを、自分の感性が拒絶している」という、極めてまっとうな自己防衛のサインだとすら思う。

一方で、アートには、私を操作しようとする意図がない。彼らは私を誘導しない代わりに、私を楽しませる義務も負っていない。

それ故、アートに対して「つまらない」と感じた時、私たちは「自分の知識やセンスの不足」を疑うべきなのだ。相手が歩み寄ってくれない以上、その豊かさに触れるためには、こちらから解像度を上げてアクセスするしかないからだ。

アップデート#

「この世界につまらないものは存在しない」という言葉は、少しアップデートする必要がありそうだ。「誰かの意図に染まっていない世界に、つまらないものは存在しない」とかになるだろうか。

クリエイティブに対する「つまらない」は、防衛反応として正しいと思う。無理に好きになる必要はない。しかし、そこで終わらせるのはもったいない。時間は有限なのだから、つまらないものに染まって時間を無駄にした、で終わるのではなく、そこから何か面白さを抽出できれば、それに越したことはない。

興味深いのは、つまらないものも一段メタな視点から見れば、大抵の場合面白くなるという点だ。秋葉原を面白く感じる必要は無いが、「何故秋葉原がこうなったのか」「何故私は秋葉原をつまらないと思うのか」自体は面白いし、面白く感じるべき問いだと思う。(なぜなら、これらの疑問を面白いと思ったところで、誰も得しないのだから!)

プレイヤーとしてゲームに参加している間は、相手の意図に操作され、搾取される危険がある。しかし、一歩引いて「なぜこのゲームはこんなにつまらないのか?」と観察し始めた途端、その空間は私を操作する力を失い、ただの興味深い現象、例えば「行動経済学」のようなアートへと変化する。

メタ視点を持った瞬間、世界は再び「誰かの意図」から切り離されるはずなのだ。その現象を前になお、つまらないと感じるなら、メタ視点の高さ、知識、センスのいずれかが不足しているのだろう。

要は、変えられるものを変える勇気、変えられないものを受け入れる冷静さ、それらを分別する知恵を持とうということになるのかもしれない。

世界は私のこともあなたのことも気にしていない。それは悲しむべきことではなく、むしろ喜ぶべきことだと思う。

まとめ#

なんだか議論が散逸してきたのでGemini先生に要約してもらいました。終わり!平定!

  1. 「つまらないものは存在しない」という思想が好き(知的好奇心)
  2. でも何でもこれのせいにすると悪質な自己責任論になる(疑問)
  3. 境界線は「誰かの意図(得)」があるかどうか(発見:アートvsクリエイティブ)
  4. 意図があるもの(クリエイティブ)をつまらないと拒絶するのは正当な防衛(納得)
  5. でも拒絶して終わりじゃ時間がもったいない(転換)
  6. メタ視点を持てば、誰の意図も乗っていない「現象(アート)」に変換して楽しめる(解決)
  7. 結論:誰かの意図に呑まれていなければ(あるいはメタ視点に立てば)、この世界につまらないものは存在しない(アップデート)
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