mobile wallpaper 1mobile wallpaper 2mobile wallpaper 3mobile wallpaper 4mobile wallpaper 5
2822 字
14 分
無意識の喪失
目次

無意識の喪失#

最近BotWにハマってます。

発売当時にやっておけばよかった…!と思い、ふとリリース日を調べてみたところ、「BotWのリリース日は 2017年3月3日」とのこと。

そこから色々考えてたらスピってしまったので書き留めておきます。

プレ・コロナのBotWの謎#

原神が流行った理由の一つが、「コロナで世界中がロックダウンされている時に、美しくて広大な世界を冒険できる基本無料ゲームが投下されたから」であるのはおそらく間違いないと思います。

しかし、BotWのリリースは2017年であり、コロナ禍の3年以上前。少なくともこの点において、原神とは同じ理屈で流行したとは言えないでしょう。

ポストアポカリプスものの流行#

2017年といえば、けものフレンズ(第一期)が放送された年でもあり、少女終末旅行のアニメが放送された年でもあります。

BoTWがポストアポカリプスものである、と言うのは少し無茶な気もしますが、世界全体に漂う何か孤独な感じと、その中で遭遇する人々のおつかいクエストをこなして強くなっていく感じは、妙にけものフレンズに通じるものがあるように思います。

(最終的に「世界のへそ」たるマップの中心にたどり着くことになるというのも一緒!)

そうなると疑問は、「なぜ2017年にポストアポカリプスものが流行ったのか」ということです。自分は未履修だけど『NieR』も2017年のポストアポカリプス作品だと聞きます。もはや、「ポストアポカリプスは2017年の時代精神であった」と考えざるを得ません。

しかし、何故??

東日本大震災の影響?#

一つの仮説は、2011年の東日本大震災を経て、「文明なんて自然の力で簡単に崩壊するものだ」という認識/反省のようなものが作品として結晶化されたのが6年後の2017年だった、というものです。

これはかなり妥当な仮説のように思えます。実際、もっと露骨に東日本大震災を描いた作品である『シン・ゴジラ』は2016年7月の公開であり、1年ズレているとはいえ同じ系列に置けそうな気もします。

しかし、個人的には何かしっくりきません。これらの作品を「諦め度合い」で並べてみましょう。

  • シン・ゴジラ
    • 諦めたら試合終了。現在進行形の厄災をなんとかして止めよう。
  • BotW
    • 厄災が発生して崩壊してしまったが、100年の時を経て再挑戦しよう。
  • けものフレンズ
    • 人類は滅びたっぽいけど、新しい世界でみんなで楽しく生きよう。
  • 少女終末旅行
    • 世界はもう終わる。静かに看取ってあげよう。

シン・ゴジラがこれから発生する/現在発生している厄災を食い止める騒々しい物語である一方、2017年のポストアポカリプス作品群は(態度に差はあれ)厄災が発生した後の静かな世界を描いている、というのは興味深い点です。

ポストアポカリプス作品群はコロナを予言していた#

ここからがスピポイントです。私には、2017年のポストアポカリプス作品群は、2年後に発生するコロナ禍を予言していたように思えてなりません。

中学時代の理科の先生が言っていたことで今も忘れられないアイデアとして、「インターネット上のあらゆる発言を集めたら、未来の出来事を予測できるかもしれない」というものがあります。人間にはある程度の予測力のようなものが備わっているので、ものすごい数の人間の発言を集めれば、例えば地震が起きる直前に「地震」という単語の使用頻度が増える、という形で予測が可能なはずだ、というのです。

パッと見は完全にスピリチュアルな話ですが、人間の直感の鋭さを信じれば、あながちあり得る話かも、と思えてきます。

例えばユングの言うシンクロニシティは、要は個人レベルでの無意識の直感の話です。現在の科学では検知できない何らかの予兆のようなものを無意識が汲み取り、それを意識に上げることでシンクロニシティが発生すると考えれば、ギリギリ現在の科学を否定しない形になっています。

同様に、多くのクリエイターが「集合的無意識」による直感を働かせた結果、数年後のパンデミックによる「誰もいなくなった静かな世界」を事前にキャッチし、2017年に出力してしまった……というのは、ガンギマってはいるもののかなり納得感があります。

「数年後にパンデミックが起きる!」という予測は無理でも、「いつ大規模なパンデミックが起きてもおかしくない」「これだけ密に全てが繋がった世界では、感染はすぐに拡大するだろう」「もしそれが起きたら、物流も人流も停止せざるを得ないだろう」くらいの想像は、当時でも十分に可能だったはずです。

それが現実になる前に対策を打つのは現実的ではないが、「こうなったらヤバいよね」とうっすら気づいていた、システムの歪みとか脆弱さとか、そういうものを無意識のレーダーでキャッチしていたのかもしれません。

歴史を振り返って#

実はこの発想、思想やアートの世界ではそこまで珍しいものではないようです。

「アートは早期警戒システムである」という言葉がある通り、優れたアーティストやクリエイターは、社会の奥底に潜んでいる目に見えない摩擦や、このまま進めば行き着くであろう未来の姿を、無意識のレーダーで感じ取り、作品として出力してしまうのだとか。

(ここでGemini先生に例を挙げてもらったところ、『The Machine Stops』が出てきた。読んでとんでもなく衝撃を受けたのだが、それは別の機会に。もうこの一文だけで色々と皮肉なことになってる気がするけど。)

そして何となくですが、この早期警戒システムは時代を経るごとにどんどん弱くなっているように思うのです。あるいは、レーダーの性能は変わらないのに社会の変化が加速した結果、予知できる時間がどんどん短くなっていると言ったほうが良いかも。

予知能力が実現可能性のある未来を発見し、その危険性を分析し、アートとして出力されるまでには、ある程度の時間が必要です。一方、社会の変化は加速を続けています。我々は既に、早期警戒システムが脆弱性を検出する前にそれが実現してしまう状態にいるのかもしれません。

無意識の警告が追いつかず、それゆえ社会的なガードレールも、心理的な準備もできていないまま、新しいアイデアが吟味されることなく実装されていく。行き着く先は、良くて修復不可能なほど入り組んだスパゲティ社会、悪くて壊滅的なシステム崩壊ということになるでしょう。

早期警戒システムの末路#

私は、この早期警戒システムはいずれ「早期」でも「警戒」でもなくなると思います。つまり、予知範囲が短くなり続け、ついには予知範囲0秒になってしまうような気がします。無意識の直感が完全に失われてしまうということです。

それがどういう意味なのかはよくわからないけど。想像したものが即座に実現する世界という意味では、お願いしたら期待通りの文章なり画像なりを出力してくれるAIがいる世界のことかもしれません。

しかし、0で止まる必要は無いのかも。この予知範囲は負の値を取りうるのかも。

「人間に意識なんて無くて、全ての行動は無意識的に実行され、あとからそれに意味を付与しているのが意識と呼ばれるものの実態だ」という説を信じるのなら、そしてこの「無意識」が早期警戒システムを構築する「無意識」と同じものだとしたら、「無意識的な実行の前に結果が現れる」ということになります。

言葉遊びになってきましたが、なんとなく意味がわかるような気もします。

Youtubeのショート動画をぼーっと見続けているとき、「次の動画を見る」という結果は、意識的な決定どころか、「次の動画を見ようとする無意識的な行動」に先んじてアルゴリズムによって決定(少なくとも誘導)されていると言えるのでは。

だとすれば、我々の無意識の直感は、個人レベルでは既に予測範囲が負の値に突入しているのかもしれません。アルゴリズムが自分以上に自分の未来を予測し、すでに画面に用意しているのだから。

この現状は、無意識の敗北、あるいは無意識の喪失と言えるのかもしれません。なにかすごく恐ろしいことな気がします。

いったいどうしたら#

『The Machine Stops』に倣う必要があるかも。つまり、直接体験(=西田幾多郎の言う純粋経験?)に積極的に触れていくとか。

自分の身体性を思い出させてくれるちょっとした運動として、私はここ一年くらい、ぶら下がることを続けています。『The Machine Stops』でぶら下がることが外の世界へのアクセス手段だったことは、偶然とは思えません。

シェア

この記事が役に立った場合は、ぜひ他の人とシェアしてください!

一部の情報は古くなっている可能性があります

封面
Sample Song
Sample Artist
封面
Sample Song
Sample Artist
0:00 / 0:00