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AI Slopがインターネット(というよりあらゆる創造的な)仕事を破壊したと言われて久しい。
このような現象は「死んだインターネット理論」と呼ばれ、しばしばAIがもたらした弊害として語られる。
しかし、個人的にはAIの跳梁跋扈は原因ではなく結果であり、以前からインターネットは既に死んでいたのではないかと思う。
一例
例えばインターネット上で文章を書くということについて取り上げてみよう。確かに、現在のインターネットにはAIに書かせた中身のない文章が溢れている。
しかし、「中身のない文章で溢れた」状態がAIによって引き起こされたものかといえば、そうでもない。AIが登場する何年も前から、インターネットにはアフィブログが溢れていた。
医療のような一歩間違えれば人命に関わる領域でさえ、専門知識のないライター、あるいはただの素人が他サイトからのコピペとリライトを繰り返し、文字数を稼いだだけの無責任な記事が検索エンジンの上位を独占していた。つまり、生成AIが一般化するずっと前から、アフィリエイト収益のために中身のない、あるいは平気で嘘を混ぜ込んだ「Slop」を大量生産する構造は、すでに人間の手によって完成していたのだ。
この構造のもとで何が起きたか。それは「純粋に文章を書きたいから書く」「自分の好きなものを誰かに伝えたい」という、かつての牧歌的な個人サイトやブログの淘汰である。私たちがアクセスできるインターネットの表層は、とっくの昔に資本主義のアルゴリズムに最適化された情報のハリボテにすり替わっていた。
そう考えると、現在の「AI Slop」の蔓延に対する見方も変わってくる。生成AIは、インターネットの死の原因ではない。人間がせっせと手作業で構築してきた「既に死んでいるインターネット」の姿を、容赦なく白日の下に暴露しただけなのではないか。
検索エンジンという「機械」に媚びるため、人間が自らを機械化して記事を量産していた不毛な作業を、本物の機械であるAIが圧倒的な効率と低コストで代替した。ただそれだけの話なのだ。
もちろん、このことは文章の世界だけにとどまらず、絵、動画、その他創造的なコンテンツのほぼ全てに当てはまる。
では、なぜそんなことになったのか?収益を得るために必要だったからだ。
表現の商業化と「自発的な機械化」
この「収益化」という毒は、純粋な創作の場であったはずの個人のイラスト文化すらも根本から変質させてしまった。正直なところ、私は有償リクエストサービスが好きではない。
もちろん、何かを作った人が正当な対価を得る仕組みは必要だ。しかし、ここで起きている現象の本質を考えてみてほしい。
かつてのインターネットにおける個人の創作は、「自分がこれを描きたいから描く」という圧倒的なエゴと熱量がスタート地点にあった。しかし今はどうだろうか。「お金がもらえるから、他人が指定した特定のキャラクターを、特定のシチュエーションで描く」という行為が、まるで個人サイトやSNSにおける創作活動のスタンダードのようになってしまった。
この「インターネット全体の商業化・下請け化」とも呼べる状況と、そのような状況が「絵描きにとって良いのだ」と考える人が多いことには、気味の悪さがある。
誰かが欲しがるもの、検索されるもの、いいねがつくもの、お金になるもの。それらを効率よくリサーチし、最適化されたコンテンツを量産する。その作業工程において、人間はすでに「アルゴリズムの奴隷」であり、極めて機械的だったのではないか。
そこに「本物の機械」である生成AIが現れた。需要に合わせて、一瞬で、疲労も文句もなく最適解(あるいはそれっぽいもの)を出力できる究極の存在である。人間が機械の真似事をしていた市場に、上位互換であるAIが参入し、あっという間にパイを奪っていったのは、残念だが当然の帰結だろう。
AI Slopはノアの洪水あるいは腐海のようなものかもしれない
こうして考えていくと、現在進行形でインターネットを埋め尽くしつつある「AI Slop」は、さながらノアの洪水のようだ。
AIによって、あらゆる種類のコンテンツの生産コストは大幅に下がった。需要をリサーチし、SEOをハックし、トレンドのキャラクターを描き、クリックベイトの動画を作るといった「人間による機械的な作業」では、もはやAIに太刀打ちできない。
そうなれば、お金やインプレッションといった「外部からの報酬」だけを目的に活動していた「クリエイタ」たちは淘汰されるだろう。
多くの人はこれをインターネットの終わりのように語る。私はむしろ、この淘汰は、むしろ健全な「自浄作用」なのではないかと考えている。そういう意味では、『風の谷のナウシカ』における腐海のようなものと言っても良いかもしれない。
では、AIという腐海がすべてのビジネスモデルを焼き尽くし、浄化し終えたあとに残る「清浄な世界」とは何か。「お金にもならないし、誰に見られるかもわからないけれど、それでも自分はこれを作りたい」という、純粋なエゴイズムから生まれる、真の意味での「アート」だけが残る世界ではないだろうか。
クリエイタではなくアーティストを目指そう
私は「クリエイタ」という言葉が好きではない。この言葉はもはや、「需要に応えるためのコンテンツ・ワーカー」という意味でしか使われていないからだ。
だから、私は「アーティスト」を目指したいし、アーティストが生き残る世界であってほしいと願っている。
ここで言うアーティストとは、「他人の需要」ではなく「自分の内なる衝動」を起点に活動する人のことだ。
「お金になるから」「いいねがもらえるから」「リクエストされたから」ではなく、「自分がそうしたかったから」と答えられる人。自分の内なる狂気や抑えきれない衝動を、誰に頼まれたわけでもなくインターネットの片隅に放り投げることができる人。そういう人が生き残るべきだ。
少し過激なことを言えば、そうでない人達が退場することは、多くの人にとっては、なんならその人本人にとっても、むしろ幸せなことなのではないかとさえ思う。
ちなみに書いていて思い出したが、「クリエイタになりたいのかアーティストになりたいのかは慎重に考えたほうが良い」という言葉は、約12年前にちょっとした師匠として(勝手に)仰いでいた、ある同人音楽コンポーザから言われた言葉だった。私はそれ以来ずっと、この2択であればアーティストになりたいと思っている。
なんでこんなこと書いてるのか
個人的な恨み
この前、ふと「絵を描けるようになりたい」と思った(この衝動は定期的に訪れ、1か月くらいハマっては少しマシになって飽きてを繰り返している)。
しかし検索して出てくるチュートリアル動画はどれもこれも、やる気を失わせるものだった。どういうわけか、(特に日本語の解説動画は)「こうやると下手くそに見えるぞ」という脅し文句のようなタイトルやサムネイルが付けられていた。その動画は確かに再生数を稼いでおり、投稿者はそのような動画を投稿し続け、ついには本を出版したらしい。
そのような動画が投稿されることも、それが人気を博すことも、私には間違いであるように思えてならない。
古き良きインターネットへのノスタルジー
一方で、Youtubeをぶらついていたら、こんな動画を見つけた。2010年に投稿されたものだ。
Another thing I want to point out is that in a lot of other shuffle tutorial videos, they make it seem like every time you drop your foot down, it has to be right next to your other foot. That is completely wrong. In hardstyle, when you create your own form, you can drop your foot anywhere.
もう一つ指摘しておきたいのは、他の多くのシャッフルダンスのチュートリアル動画では、足を下ろすとき、必ずもう片方の足のすぐ隣に置かなければならないように説明されている点です。それは全く違います。ハードスタイルにおいて独自のフォームを作る際は、足をどこに下ろしても構いません。
私はハードスタイルを滅多に聞かないし、ダンスを踊りたいわけでもない。が、この動画のこの部分を見たとき、とても心に響いた。アートというのはそういうものであるべきはずなのだ!という気持ちと同時に、16年間で我々が失ったものの大きさを痛感した。
これらの2例を元に悶々と考えたことを整理したのがこの記事である。
一部の情報は古くなっている可能性があります



