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深夜。というよりも、既に空は白み始めているので早朝というべきかもしれない。私はいつものようにYouTubeを開いて、漫然と動画を再生して回っていた。そんな中、以下の動画に行き当たった。
「クリエイティブ・ノンフィクション」を書こうという主張の動画だ。しかし、クリエイティブ・ノンフィクションって一体何なんだ?
クリエイティブ・ノンフィクションとは何か
クリエイティブ・ノンフィクションとは、事実に基づいて書かれたノンフィクションでありながら、単なる事実の羅列にとどまらず、物語性や感情を伴った文章のことである。
例えば、回想録(メモワール)やドキュメンタリー(ルポルタージュ)はクリエイティブ・ノンフィクションの代表的なジャンルだ。これらは実際の出来事や経験を基にしているが、出来事を再構成したり、様々な修辞技法を用いたりして、魅力的なストーリーとして伝えるものである。
回想録は、主語が「私」であるクリエイティブ・ノンフィクションであり、個人の経験や感情を中心に描かれる。一方、ドキュメンタリーは主語が第三者であるクリエイティブ・ノンフィクションであり、客観的な視点から描かれている(ように見える)ことが多い。しかし、どちらもWikipediaの記事のような「単なる事実の羅列」とは一線を画している。
……というのは、動画を見たあと気になって質問してみたGemini先生の受け売りである。
なるほど。そう言われてみれば、私はWebメディアの「デイリーポータルZ(DPZ)」が好きだが、あそこのほとんどの記事はクリエイティブ・ノンフィクションの一種であると言えるだろう。
DPZの記事は、空想ではなく、実際にやったことや経験したことを基にしている。しかし、記事の主眼は工作の正確な手順ではなくその試行錯誤のプロセスにあり、街の些細な様子そのものではなく、そこから感じた筆者の感情や思考にある。だからこそ、DPZの記事は単なるハウツーや観光ガイドとは違う、クリエイティブ・ノンフィクションとして成立しているのだ。
論文指導が植え付けた「主観を交えない」というプロトコル
以前、「紀行文のようなものが書けなくなってしまった」と感じたことがあった。
何年か前、どこかへ旅行に行った時のことだったと思う。その感想を記録しようとした時に、全く筆が進まなかった。単に文章が書けないということではない。どこへ行って何をしたか、という「報告書」のようなものは書ける。問題は、自分の経験や思考を、魅力的なストーリーとして伝えることができなくなってしまった、ということだ。
原因は明らかだった。大学での学術論文の執筆、そしてその後の社会人生活において仕様書や業務報告書を量産する中で、「主観を交えない」というプロトコルを、脳のシステムレベルで叩き込まれてしまったのだ。そしておそらく、「全ての物語は英雄の旅に還元できる」という発想であらゆる物語を分析していたのも、これに大きな影響を与えているだろう。
論文的なライティングにおいて、「私(I)」は基本的に禁句である。「悲しかった」「嬉しかった」などの主観や感情は、徹底的に排除されなければならない。そこで求められるのは、誰が読んでも一意に解釈できる、無機質で伝達効率を極限まで高めた「機能美」としての日本語だ。
このプロトコルは、学術的なコミュニケーションにおいては非常に有用だ。論文は、研究者同士が情報を共有し、知識を積み上げていくための手段である。そこでは主観や感情が入る余地はない。むしろ、それらが入ると情報の正確性や信頼性が損なわれてしまう。
私はその書き方を、一種の「絶対的な善」として内面化してしまった。その結果、私の脳内には冷徹でつまらない検閲官が常駐することになった。そのような状態では、旅行記を書こうと思っても、記述されるのは事実の羅列だけだ。そこには、私がその場所で感じたことや考えたことが入り込む余地はない。旅の興奮を記録し、再現できるような紀行文を書けるわけがなかった。
(ちなみに、ここまでを書いた後に昼間に12時間ほど睡眠を取った結果、この「何年か前に旅行へ行ったどこか」とはテイワットだったことを思い出した。原神に尋常じゃないほどハマり、何らかの形でその感想を残したかったのだが、当時はうまく言葉にできなかったのだ。)
主観的な文章が書けなくなったというのは、考えてみるとかなり恐ろしい事態だ。感情を保存するためのメディアが一つ使用不能になった、というだけではない。私の内なる検閲官は、私の主観的な感想にすらも、権威ある情報源からの引用を求めるようになっていた。そして、そのようなソースが見つけられないのならば、そもそもそれは間違いであると判断していたのだ。
それは論文を書くときには正しいプロトコルかもしれないが、すべての場面で正しいプロトコルではない。そのことに気づくのにはかなりの時間がかかった。無数のブログ記事の執筆を通して、私はようやく、「文章には主観を交えて良いのだ」ということを体感的に理解することができた。
そして、私が書きやすさを感じる傾向の文章に、「クリエイティブ・ノンフィクション」というラベルが存在していることを知ったのが、まさに今日のことだ。
なぜクリエイティブ・ノンフィクションを書くべきなのか
クリエイティブ・ノンフィクションを書く技術とは、つまり、実際に起きた出来事や自分の意見に嘘をつかないまま、それらを魅力的なストーリーとして伝える技術のことだ。なぜ、そんな技術を身につけるべきなのだろうか。
そのような技術を身につけることが、すべての人の精神の健康にとって必要だからだ、と私は思っている。
WARNINGここから先には、精神的な病やメンタルヘルスについての記述が含まれますが、私は専門家ではありません。あくまで個人の考察としてお読みください。
最近、私の周囲では奇妙なことが起きている。「一ヶ月に一度以上会う人」を親友と定義し、精神科医のお世話になることを「メンタルを病む」と定義したとき、私の親友は全員が何らかの形でメンタルを病んでしまった。彼らはそれぞれ独立したコミュニティに属しており、基本的に接点はない。だから、「感染」したということはあり得ない。
それぞれの話を聞くうち、彼らに共通しているのは「自分の人生にナラティブ(物語)を見出せていない、あるいは見失ってしまった」ことなのではないか、と思い至った。
例えば友人の一人は、1年前に転職し、最近ようやく一つの大きなプロジェクトを成功裏に完了させた。にもかかわらず、「最近憂鬱気味で、家に帰るなり睡眠薬で自我を消すようにして精神を保っている」と言う。また、「10年以上にわたってノートに書き続けてきた日記を止めてしまった」らしい。社会的にうまくいっていないならともかく、うまくいっているのに、なぜそんな状態になってしまうのか。
単純に言えば「目標達成後の燃え尽き」ということになるのだろうが、より詳しく言えば、彼は一つの大きなクエストを達成したことで、次のクエストを見失ってしまったのではないだろうか。
『原神』で言えば、魔神任務の一つの章を完遂した後に、その次の章に進まず、ただひたすらデイリークエストを消化している状態だ。そしてそれは、ゲームを遊ぶ方法としてはもっとも退屈なものであることは間違いない。
ゲームならば、そんな状態にあるなら一度休養期間を置けばいいという話になるが、現実の人生ではそういうわけにもいかない。
ゲームを「やめる」ことなくそのような状況を打破するには、新たなナラティブを見出す必要がある。原神であれば、放置していた世界任務を進めるとか、何らかの目的を持ってキャラクターを育成するとか。そうしているうちに世界への関心が高まり、「この世界をもっと知りたい」「私はひとつの場所にとどまってはいけない旅人なのだ」ということを思い出し、不思議と次の魔神任務を進める気になってくる。
では、このアナロジーは現実世界でどう活かせるのだろうか。
現実の人生には、開発者が用意してくれた「次の魔神任務」など存在しない。社会人としての「デイリークエスト」をこなすだけで精一杯の日々の中で、私たちは容易に自分の現在地を見失ってしまう。
だからこそ、私たちは自らの手で、自分の人生にナラティブを与えなければならない。「私は今、こういう文脈の中で、こういうクエストをこなしているのだ」という物語を、自分で自分に語り聞かせる必要があるのだ。
そして、そのための最も強力なツールこそが「クリエイティブ・ノンフィクションを書くこと」であり、その技術を内面化することなのではないか。
クリエイティブ・ノンフィクションを書くということは、単に起きた出来事を記録することではない。混沌とした日々の経験や無数の事実の羅列の中から、特定の糸を引っ張り出し、そこに「私」という主語と感情を織り込んで、ひとつの意味ある「物語」として編み直す作業だ。
だから、彼が「日記を書かなくなってしまった」のは、燃え尽きの結果というよりは、むしろ「ナラティブを失い、燃え尽きてしまう原因」だったのではないか、とすら思う。
なぜ「ノンフィクション」である必要があるのか
おそらく、自らの人生に与えるナラティブは適量である必要がある。
私は、ナラティブが不足すれば鬱の方向へ進み、ナラティブが過剰になれば統合失調症的な状態(現実からの解離)に陥るのではないかと考えている。前者は世界が無意味なものになってしまうことによる精神の崩壊であり、後者は世界が過剰なナラティブで満たされてしまうことによる精神の崩壊だ。
前者はこれまで話してきたとおりだ。後者(に近い状態)で病院のお世話になっている友人は相対的に少ないし、詳しい事情も聞けていない。そこで、非友人の例を取り上げよう。
私はここ1年、ある「占い師」のブログをヲチし続けている(あまり趣味の良い行為ではないことは認める)。ブログには、彼の中では整合性が取れているのだろう宗教観や占いの結果に基づいた、奇妙な主張が頻繁に投稿されている。
それだけならまだしも、どうもブログを読み解く限り、彼は投資詐欺に引っかかって100万単位の金を失っているようだ。そして、それを食い止めるために両親が成年後見制度を利用して財産管理を行おうとしていることに対しても、強烈な敵意を見出して抵抗している。
この占い師のブログは、自分の人生に対して過剰なナラティブを与えてしまっていることの一例だ。彼は、自らの人生に対して過剰な意味づけを行い、過剰なストーリーを作り上げてしまっている。その結果、現実から乖離した世界観を持ち、客観的な判断ができなくなってしまっているのだろう。
だからこそ、ここで「ノンフィクション」であることの重要性が浮かび上がってくる。
私たちが精神の健康を保つためには、自分の人生にナラティブを与える創造性が必要だ。しかし、想像力は強力なエンジンであると同時に、扱いを間違えれば暴走する。自分の都合の良いように事実を捻じ曲げ、世界を自分だけの過剰なストーリーで塗り潰してしまえば、行き着く先は現実からのログアウトだ。
自分を現実に繋ぎ止める強靭なアンカーとなるのが、「事実(ノンフィクション)」という制約なのだ。
クリエイティブ・ノンフィクションとは、決して「嘘をつくこと」ではない。客観的な出来事や、それについて自分がどう思ったかは一切改ざんしない。その上で、「それが私にとってどういう意味を持っていたのか」という解釈の糸だけを紡いでいく作業だ。
学術論文のように主観を徹底的に排除した「ナラティブの欠如(事実のみの羅列)」と、事実を無視して妄想を膨らませた「ナラティブの過剰(事実の喪失)」。
私たちの心は、この両極端のどちらに傾きすぎても壊れてしまう。クリエイティブ・ノンフィクションを書くという行為は、そのバランスを取るための重要な技術なのだと思う。
まとめ
- クリエイティブ・ノンフィクションとは、事実に基づいて書かれたノンフィクションでありながら、物語性や感情を伴った文章である。
- 「主観を交えない」プロトコルへの過剰適合は、自分の経験を物語る力を奪い、感情を凍結させてしまう。だから「クリエイティブ」であることが必要だ。
- 「ノンフィクション」であることは、現実との接点を保ち、ナラティブが暴走して妄想に陥るのを防ぐための「重石」として機能する。
- 適切な量の「ナラティブ(物語)」を人生に見出すことは、精神的な健康を保つための生存戦略である。
もし、あなたが最近、自分の人生を「ただの事務的な処理の連続」だと感じているのなら。あるいは、かつて好きだったはずの何かに、心が動かなくなっているのなら。一度、「クリエイティブ・ノンフィクション」というラベルを意識して、文章を書いてみてほしい。
気がつけば、この文章を書き始めてからもう丸一日が経とうとしている。空が再び暗くなってしばらく経った。
検閲官はまだ眠っているようだが、私は起きている。
一部の情報は古くなっている可能性があります



