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最近、「音質」という概念がよくわからなくなりつつある。
一般的に、音質の良さとは「ノイズが無い」とか「周波数特性がフラットである」といった物理的な指標を指すだろう。しかし、果たしてそれらが本当にオーディオが目指すべき最終目的なのか、疑わしくなってきた。
ノイズの無さやフラットな特性は、あくまで「音の良さ」を構成しうる手段の一部でしかないのではないか。
目指すべき「音の良さ」とは何か
色々考えた結果、目指すべき本当の「音の良さ」とは、「その音が本来存在するべき文脈(コンテキスト)で機能すること」ではないかと思うようになった。これは、スペック的な音質とは全く別の次元の話だ。
いくつか事例を挙げて説明してみる。
ラジオの場合
私は最近、SDR(ソフトウェア受信機)でラジオを聴くのにハマっている。火曜日の深夜に小原好美さんの番組を聴くのが最近の楽しみだ。
一度、タイミングを逃してやむを得ずradikoのタイムフリー機能で聴いたのだが、何かが違うように感じた。理由は明確で、ラジオ特有のノイズが全く無いのだ。
単純な「音質」で言えばノイズレスなradikoの方が優れているはずだが、私にとっては、電波の揺らぎやホワイトノイズが背景で鳴っている状態こそが「ラジオを聴いているという本物の体験」だった。少しの懐古趣味もあるだろうが、あのノイズがあってこそ体験として完成する心地よさがある。実際、ホワイトノイズには精神を落ち着ける効果があるとも言われている。
レコードの場合
同様のことは、音楽一般にも言える。なぜ今、レコードが再流行しているのか?
しばしば「レコードはアナログだから無限のサンプリングレートを持つ、故に高音質だ」という理屈で肯定されるが、これは誤りだと思う。レコードの針は無限小ではないし、純粋なマスター音源からの劣化度合いを考えれば、デジタル完結の音源には確実に劣る。
レコードの真の価値はそこではない。レコードとして発売されていた当時の音楽は、当時のリスナーがレコードの音響特性を通して聴くこと、あるいは制作者がその状態で届くことを想定して作られていたのだ。だからこそ、当時の音源をレコードを介して聴く行為が「本物の体験」になる。
(故に、現代のデジタル環境で作られた最新の音楽をわざわざレコードにして聴くのは、根本的に意味を履き違えているように思う)
周囲の雑音と環境
さらに発展させると、周囲の雑音(アンビエントノイズ)すらも、音の良さの阻害要因ではなく必須要件になる場合があるかもしれない。
例えば、私は Factorio Space Age のサントラが好きだが、この音楽を単体で聴くと、不自然どころか危機感すら覚える。宇宙プラットフォームの上で流れる音楽に、小惑星破砕機やタレット、スラスターの音が混ざり合っていないとすれば、それはロジスティクスに何か深刻な問題が発生していることを意味しているからだ。
あるいは、『原神』のようなオープンワールドゲームのサントラを、ノイズキャンセリングイヤホンで聴くのは少し違う気がしている。そもそもゲームのBGMは、足音や環境音、効果音などと混ざり合った状態で聴かれることを前提に作られているはずだ。それらを完全にシャットアウトしてしまうのは、制作者の意図や本来の文脈を削ぎ落とす行為に思える。
もっと言えば、激しい戦闘曲を自宅の椅子に座って静かに鑑賞するのも不自然だ。本来なら誰かと戦いながら聴くべきだが、現実には不可能なので、せめて何らかの運動をしながら聴くのが次善の策になるだろう。
身も蓋もないことを言えば、ゲームのサントラはゲーム内で聴くのが一番正しいのだ。
私が音に求めているもの
ここまでの思索をまとめると、私が音を聴く時に求めているのは以下の2点になりそうだ。
- 聴く対象の音と、聴き手である私自身が、その音が本来存在するべき「本物の環境や状態(文脈)」に置かれていること。
- それが不可能な場合は、少しでもその状態に近い環境を再現すること。
無理やり西田幾多郎を投入するならば、いわゆるHi-Fiな音の良さや分離の良さを求めるのは、その音に対する「知」の姿勢である。それは確かに重要な要素ではあるが、対象を非人格的なものとして解剖していった先に残るのは、空気の振動という無味乾燥な物理的現象に過ぎない。
分析的な理解に加えて、対象を人格的対象として捉え、神が発現した結果である世界そのものを受け入れる「愛」の姿勢があってこそ、本当にその音を聴くという体験が成立するのではないだろうか。
本物の音に最も近づいた瞬間
ここ半年ほどそんなことを考えていたが、ある経験をしたことで、この考えは確信に変わった。
私は最近、長年住んだ街から引っ越すことになった。家を引き払った後の滞在最終日の夜、友人の提案で、その街を一望できる山に登って頂上で一泊することになった。
深夜の展望台を独占するため、巨大なリュックに寝袋代わりの古い布団カバーと枕を詰め込み、21時頃に登山道に入った。1時間ほどかけて夜の山道を登り、頂上に着いた。
眼下に広がる街の夜景を眺めながら、いくつかの曲を再生した。
一曲目は『原神』のメインテーマ。
暗い山道を登り切った疲労感と達成感。そこから見下ろす絶景。このシチュエーションで聴くメインテーマは、これ以上ないほど完璧だった。これまで聴いてきたどの環境よりも、いま鳴っているこの音こそが「本物」だと感じた。
山頂に設置された巨大なアンテナを通る風切音が鳴り響く中、スマホから直接再生される音が、物理的に「良い音」でないことは言うまでもない。
二曲目は『少女終末旅行』のメインテーマ。
そして三曲目は、そこからSpotifyが自動選曲した同じく『少女終末旅行』の「終ワリノ歌」。
眼下に広がる夜景には、この10年間の私の生活圏の大部分が収まっていた。そして今、文字通りその生活は終わりを迎えようとしている。友人との夜行登山の果てに辿り着いた高所は、ひどく寒かった。完璧な舞台だった。やはり、これまでのどの体験よりも、最も本物であるように感じられた。
ちなみになぜこの3曲なのかといえば、以前この友人と(当時合法だった)LSDアナログでガンギマリのパーティを行った際、深夜に『少女終末旅行』を一気見し、その後ベランダから日の出を眺めながら『原神』のメインテーマを聴いたからだ。

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