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10 分
バーバラさんとのデートで哲学的な気持ちになった

そういえば記録し忘れていたのですが、9/20から原神を再開しています。パイモンからの「帰路の贈り物」開放メールは7/28に来ていたものの、なかなかやる気が起きず、2ヶ月近く遅れてのイベント起動となりました。

とりあえず新エリアに追いつくためにナタの魔神任務を進めています。が、今日は嗜好を変えてバーバラさんのデートイベントをやってみることにしました。

シナリオ分岐の複雑度が(思ったより)すごい#

デートイベントに関してはまだノエルさんの2つのクエストしかクリアしていなかったので、バーバラさんのシナリオ分岐の複雑さには驚きました。

例えば以下はノエルさんのデートイベントその1のシナリオ分岐図。

ノエルさんその2。

たいへん綺麗な木になっています。

一方バーバラさん。

↓続く。

木ではなくなってしまった。

この違いは実装順とかに依るんですかね?ノエルさんよりもバーバラさんのデートイベントの方があとに実装されたので、より複雑なことを試せるようになったとか?

解けなかった謎#

しかし、このクエストで私は禁じ手を使ってしまいました。攻略情報を見たのです。

最下部のエンディング直前の選択肢に「バーバラファンクラブって何? (ロック解除基準を満たしていません)」というものがあり、これをアンロックする方法がわからなかったのです。

調べてみたら、最初の分岐で上ルートを進み、「話が分かる」アルバートさん 内で「バーバラファンクラブって何?」を聞いたうえで、「祈祷牧師の余暇」に進む必要があった(途中でロードした場合はアンロックされない)とのこと。

まさかこの公式の分岐図に記載されない内部情報があるとは思ってもいませんでした。ひたすら選択肢を虱潰しする羽目になり、それでも無理だったので「もしかして過去の一定期間だけアクセス可能だったのか?」とか疑惑に駆られた結果、攻略情報に頼るしか無かったのです。

「愛」と「知」#

本題はここからです。私はこの経験の中で、バーバラさんへの愛が知へと変容していくのを実感しました。

西田幾多郎によれば、

普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。

とのことです。つまり、愛も知も同じ知識(=頭と身体の両方で理解すること。知は頭、識は身体全体を意味する)に過ぎないのだが、対象を人格的に見た場合それは愛となり、対象を非人格的に見た場合それは知となるらしい。

私の例に当てはめて言えば、バーバラさんを人格的に知識していたのが、気づけばゲーマー的、非人格的な知識に変容してしまったというわけです。

だからこのイベントはイマイチだった、という論をしたいわけではなく(普通に楽しめた)、ただ興味深いというか、これが西田幾多郎の言っていたことか!って実感できてむしろ嬉しかったのです。もちろん、バーバラさんは引き続き好きです。パーティに入れようか悩むくらいには。

無関係な話#

ここでふと、Undertale の Flowey のことを思い出しました。きっと彼も、SAVE の力に気づいた時に、世界の全てが人格的対象ではなく非人格的対象になってしまったのでしょう。そう考えると、Floweyの感覚は西田幾多郎的にすごくわかるし、逆に西田幾多郎の言いたかったことの最悪ケースがこのルートに進んだ我々ということなのでしょう。

It all started because I was curious.

Curious what would happen if I killed them.

“I don’t like this,” I told myself.

“I’m just doing this because I HAVE to know what happens.”

Ha ha ha… What an excuse!

You of all people must know how liberating it is to act this way.

さらに発展して考えれば、Undertaleというゲーム全体が、「愛」と「知」の問題を扱ったものだと言えるのかもしれません。モンスターを人格的対象として扱うか、非人格的対象として扱うか。人格的に扱えば愛のルートへ進み、対象を非人格的なEXP源として扱えば知のルートを進む、ということなのかも。

まとめ(と言えるのかよくわからないけど)#

上記のFloweyのセリフに”curious”という単語があるのがとても興味深い。

私は「好奇心」は無条件で良いものだとここ数年考えていました。しかし、「好奇心がおそろしい結果を招くこともあるのではないか」という反論に対する良い回答を見いだせずにいました。

西田幾多郎の主張を取り込めばうまく回答ができるような気がします。つまり、単に知(対象を非人格的対象として見たときの知識)だけではいけない、愛(対象を人格的対象として見たときの知識)を持たなければ、「知の極点」にたどり着くことはできないのだということです。

Toby Fox がどこまで考えていたのかわからないけど、この考え方を意識的にゲームに落とし込んだとしたら天才すぎるし、無意識的にそういうゲームになったんだとしたらやはり天才すぎる。

さらに言えば、ZUN は西田幾多郎についてどれくらい詳しかったのだろうか。善の研究で西行法師の歌が引用されていること、刊行の4年前に二女「幽子」を喪っていることには、かなり引っかかるものがあります。

これもうわかんねえな。

Future work#

  • では、『メイドインアビス』のボンドルドは一体何なんだ?
  • Kemonomythに残された宿題に答える時が来たのかもしれない。

けもフレは東洋哲学とそれに関連する比喩を使うことでより正確に理解できるかもしれないが,それらに関する私の知識はそれほど多くないため,モノミスと,西洋の世界における同等の概念でなんとかする.我々は西洋人であり,それが我々の受け取り方である.

ここで働く哲学の原理は西洋的な解釈だ.しかし,美徳の原理以外にこれら全てを説明する東洋の思想があるとすれば,それは驚くべきことだろう.

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示例歌曲
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