
西田幾多郎『善の研究』を読んでいます。
逆順に読むとわかりやすいとのことなので、第四編『宗教』から読むことにしました。
なかなか難解だったものの、木構造(というか決定木アルゴリズム)を補助ツールとして考えることでかなりしっくり来た気がします。
世界観のモデル
まず、この世界の全体構造を以下のようにモデル化する。
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神
- すべての根源である根ノード。
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個人
- 木の中に存在する特定のノード、あるいはそのノードを根とする部分木とそれが表す部分空間。
- 個人に限らず、世界のすべては神を根とする大きな木の中の真部分木である。
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実在
- 木全体。
この木は、静的な構造ではない。常に新しい枝葉を伸ばし、自己を分化・発展させ続ける生命的なプロセスそのもの。なので、木自体というよりは決定木アルゴリズムを考えるとよりわかりやすい。
「分化」と「統一」
私たちの意識の働きは、この木の上での二つの逆向きの運動として理解できる。
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分化
- 親ノードから子ノードへの「枝分かれ」のプロセス。
- もともと渾然一体だった実在(データ空間)を反省によって切り取り、分割していくこと。
- 主観と客観、私と世界といった区別は、反省によって後から生まれる。
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統一
- 子ノードから親ノードへと「遡ろうとする」運動。
- バラバラになった経験や知識を、より高次の意味や秩序(親ノード)へとまとめ上げようとする精神の根本的な働き。
- 自己意識とは、この「統一」が成功した時に付随して生まれる感覚である。
例えば、3本の直線で囲まれた図形は三角形である。ここで、「2つの辺の長さが等しい」ことが反省されると、二等辺三角形という子ノードによって三角形の空間の一部が切り取られる。あるいは、三角形全体から一部の可能性に限定される。
これと同様に、私の手足は私を一部に限定したものだし、昨日の私と今日の私は私を一部に限定したものである。
三角形の限定の仕方がいくつかある(二等辺、直角等)ように、私の限定の仕方もいくつかある。多様な限定の仕方があると自覚することが、「自由」の正体である。
個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己自身を限定する self-determination の謂である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。
逆に、二等辺三角形や正三角形を統一することで「3本の直線で囲まれた図形」として部分木全体をまとめることができる。同様に、昨日の私と今日の私を統一することで、私という自己をまとめることができる。この時に、付随して意識の感覚が現れる。
愛とは統一を求めることである。あらゆる経験をまとめて自己を統一しようとすることが自愛であり、自己と他者を統一しようとすることが他愛である。
世界は神の自己発展である
全てのノードの分割アルゴリズムは同じである。
宇宙の根源にある究極の実在(神)と、私たち個々の意識は、全く別の原理で動いているのではない。私たちの意識を成り立たせている根本的な働きは、宇宙全体を成り立たせている根本的な働きと、本質において同じである。
- この世界の全ては、神を一部に限定した部分木である。
- 我々が自己の可能性(手足とか過去の自己とか)を発現させて行くのと同様に、宇宙は神の人格的発現である。
- 我々が愛する(=自己の統一を求める)のと同様に、神は世界を愛している。
- ただし、神は全集合なので統一する先がない。そのため、統一に付随して現れる意識も、神は持っていない。
神とは一切の枝分かれが起きる前の根のみの状態である。自己もまた、自己の部分木において枝分かれが起きる前の状態を経験することができる。これが純粋経験ということである。だから、純粋経験の状態というのは、神に最も近い状態である。
ところで、分化と統一はコインの表裏であって、本質的には同じものである。決定木は分化が進むほどモデルとしての表現力が上がる。根ノードだけでは有益な情報は得られない。世界を分化させていくことで、初めて神は自身の無限の豊かさを表現することができる。
神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。
というように、分化は統一の前提条件である。あらゆる三角形の可能性を試した後に、全てに共通する「3本の直線で囲まれた図形」という三角形自体の特徴が明らかになるのと同じだと考えるとよいのかもしれない。
知と愛
知と愛は同一のものである。
- 知と言ったときには、対象を非人格的なものとして見た時の知識を指す。
- 愛と言ったときには、対象を人格的なものとして見た時の知識を指す。
…が、これらは対象の違いに過ぎず、精神作用自体は同じである。
宇宙は神の人格的発現であるとすれば、神を知るにはそれを人格的なものとして見なければならない。つまり、神とその発現である世界を愛さなければならない。
感想
これらの理解が合ってるとしたら、確かに西田幾多郎はすごく良いことを言っている。そして(いわゆる普通の)木がしばしば宗教的な意味を持つのも、とても納得がいく。
ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』的に言えば、英雄が冒険の最深部で「父親との一体化」を達成するのは、自己の可能性を発現させていった結果、実はそれが人格的発現を続けている神と同じことをしていると気づく、ということなのかも。
冷奴
更に立ち返って考えてみると、アニメ『ケムリクサ』はものすごく西田幾多郎的な話なのかもしれない。
- この世界における根ノードは11話で描かれたエデンの園的な状態であり、そこからわかばとりりという分化が発生した。
- 統一を目指すために、りりは更に自身を分化させなければならなかった。その目的は、分化後のりん達が自由に生きること(=人格的発現)である。
- りんがわかばを愛せるようになったことで、りりの全ての分化先が人格的発現を達成したと同時に、真の意味でわかばを知ることができた。
- 故に、最深なる統一の結果として外の世界が開かれた。
もう一度見直す必要がありそうだ。