
しばらく前のこと。初対面の相手に「趣味は何か」と聞かれて、回答に窮するということがあった。
その時、私は他人に説明しやすい「趣味」を持っていないということに気づいた。私はとりあえず音楽が好きだが、同じ熱量でジョーゼフ・キャンベルも好きだし、コンピュータも好きだし、ゲームも好きだ。一言で自分のアイデンティティを紹介できるような趣味が無い。
その時は色々と考えた結果「無趣味」として回答したが、そうした結果会話は噛み合わず、かなり妙な方向に進んだ。私は「無趣味」というアイデンティティも無い。
この現象について考えた結果、どうもおかしいのは自分ではなく、「趣味」という言葉の意味なのではないか、「趣味」という言葉が意味する概念がねじ曲がってしまっているのではないかという結論に至った。
要するに、「趣味」とは本来商業的なものとは無縁である(べき)はずなのに、あらゆる形で資本主義なり商業主義なり、とにかく現代社会の悪影響を受けてしまっているのではないか、と思っている。
商業化された趣味
では、私が思う本来の「趣味」の定義とは何かといえば、それは「アマチュアとして打ち込んでいる何らかの活動」として説明するのが今のところしっくりくる。
私は「好きなことで生きていく」という言葉に強烈な気持ち悪さを感じる。ここで「好きなこと」というのは、「趣味」と言い換えて良いだろう。その場合、「趣味で生きている」ならその人は「趣味で生計を立てている」のであって、もはやそれは(上述した定義上は)趣味ではない。ある人が「私は動画製作という好きなことで生きています」と言った時、その人はプロの動画製作者であって、アマチュアの動画製作者ではない。つまり、その人が動画製作が趣味であると言うのは正しくないし、道徳的に間違った嘘であるとすら思う。
言葉遊びはやめて実例を考えてみよう。私はソフトウェア的な方面で機械をいじることが嫌いではない。たぶん、平均的な人に比べれば好きなのだと思う。そして私は現在その方面で生計を立てている。それはもはや「ITエンジニア」という職業である。それで生計を立てている以上、これを趣味と言うつもりはないし、プロとしての意識を持つべきはずだ。
逆に、私は音楽を聞いたり分析したり作ったりするのが好きだが、それで生計を立てているわけではない。プロの自覚は無いし、持つべきではないと思っている。そう考えた瞬間に、もはやそれは趣味ではなくなってしまいそうだからだ。
しかし世間の潮流としては、「好きなことで生きていく」という言葉に矛盾を感じている人はそんなに多くないらしい。というか、「それで生きていけていないのなら趣味ではない」という発想すらあるように感じる。
生産的な趣味
私は「クリエイター」という言葉もあまり好きではない。というか、「私はクリエイターです」と言う人が好きじゃない。
いつからか、「趣味」には何らかの「生産性」が求められるようになった。「ただ映画を観る」よりも「映画レビューをブログに書く」方が、「ただゲームで遊ぶ」よりも「ゲーム実況を配信する」方が、より価値のある趣味だと見なされる風潮がある。
そこには、「インプットだけで終わらせず、アウトプットにつなげるべきだ」という、自己啓発的な強迫観念が横たわっている気がする。趣味はスキルアップや自己投資と結びつけられ、「役に立つ」かどうかが一つの評価軸になってしまった。
しかし、趣味に生産性という物差しを当てた瞬間、それはもう一つの仕事と化す。本来、誰に評価されるでもなく、ただ自分の心の充足のためだけに行うはずだった活動が、「もっと価値あるものを生み出さなければ」というプレッシャーに晒される。
これが自分にとっての価値を追求している分にはまだ良いものの、第三者にとっての価値を追求するようになると妙なことになっていく。お金やいいね数によって客観的に測定される価値を追い求めるようになる。そうなれば、やはりもうアマチュアとは言えない。その人は「お金稼ぎ」や「いいね稼ぎ」が好きなのであって、映画やゲームが好きなわけではない。
具体例を考えてみよう。何年か前に私が好きだったある絵師は、反AIを掲げてコミッションサービスどころか絵を描く事自体をやめてしまった。私はこの行動が全く理解できない。絵を描く事が好きならば、自分の成果物がその後どう扱われようと、筆を折ることには繋がらないはずだからだ。
AIによって自分の絵柄を模倣されることが嫌なのであれば、好きだったのは「絵を描くこと」ではなく「自身のオリジナリティを証明すること」だということになる。
というか、忌憚なく言ってしまえば、断筆の判断を下した瞬間の彼/彼女は、決して「絵を描くこと」が好きだったわけではないだろう。「金を稼ぐこと」の手段として絵を描いていたが、AIによってその目的が脅かされたので、「絵を描くこと」が良い戦略ではなくなった、故に辞めるべきだという合理的な結論を下したに過ぎないのだろう。
消費的な趣味
では、何かを作る以外の活動は安全な趣味かと言えば、そんなこともなさそうだ。
私は「推し活」という言葉が大嫌いだ。
もちろん、誰かや何かを熱烈に応援する気持ちそのものを否定するつもりはない。ただ、「推し活」という言葉には、純粋な「好き」という感情が、いつの間にか「どれだけお金を使ったか」という消費の物差しで測られるようになってしまった、という歪みが内包されているように感じる。
CDを何十枚も買い、グッズをコンプリートし、高額なスーパーチャットを投げる。その行為自体が好きだからやっているという人はいないだろう。根底にあるのは、「ファンとして貢献しなければならない」という義務感や、「他のファンに負けたくない」という競争心ではないだろうか。
「好き」という内面的な感情が、「売上に貢献する」「ランキングを上げる」といった、外部から観測可能で、かつ商業的な指標に置き換えられてしまう。そこでは、ファンはもはや純粋な支持者ではなく、マーケティング戦略に組み込まれた駒であり、無給の営業担当でしかない。
企業は巧みにファンの承認欲求や帰属意識を煽り、「消費こそが愛の証である」という価値観を植え付けてきた。その結果、人々は「推し」をダシにした消費活動に夢中になり、自分の時間と金を差し出すようになった。それはもはや趣味ではなく、資本主義に最適化された奉仕活動だ。この奉仕活動の報酬は、推しの対象あるいは他のファンからの承認である。金が承認にすり替わっただけで、やはり「推し活」それ自体は目的ではなく承認欲求を満たすための手段となっている。
「生産的な趣味」と違って、生計を立てるための仕事にすらならない分余計にたちが悪い。
5億年ボタンテスト
ではどうすれば良いのか?
まずは自分が本当にしたいことが何なのか、正しく認識するべきだ。自分が本当に求めているのが金や承認なのに、その手段が好きなのだと誤解することで、歪みが生じてしまう。そして、そのような歪みを生じさせることで儲けようとする悪い奴らは大勢いる。
前述の絵師は、そこそこ長い期間絵を描いていた記憶がある(本当に残念なことに、彼/彼女は過去の作品もすべて消してしまったので、具体的に何年やっていたのかはもうわからない)。コミッションサービスに登録していなかったらきっと、断筆することもなかったと思う。自分の絵が金になると知ってしまった時に、目的がすり替わってしまったのであって、本来は純粋に「絵を描くこと」が好きだったはずだ。少なくともそう信じたい。
そんなことにならないよう、目的のすり替えに対して免疫を持つには、以下の「5億年ボタンテスト」が役に立つかもしれない。
(もし5億年ボタンを知らなければ、「渇きや飢えから解放され、死の恐怖を感じることもないが、一定時間後にその空間内でのすべての成果や記憶が失われて元の場所と時間に戻って来るような場所」を考えてほしい。5億年である必要はない。)
- もしあなたが5億年ボタンを押したとして、転送された空間内であなたはその活動をやるだろうか?
- やる、と自信を持って言えるのであれば、その活動は目的のままになっている。安心してその趣味を続けるべきだ。
- やらないのであれば、その活動は第三者から金銭や承認を得るための、あるいはそれ以外の何らかの目的のための合理的な手段と化しているのかもしれない。一度冷静になって、自分が本当にしたいことは何かを考えるべきだ。
愛の本質とは
5億年ボタンはあくまでテストであって、好きとか愛といった概念の本質ではない。円の本質は「ある点から等距離にある点の集合」なのであって、面積がであるのはその本質から導き出される性質に過ぎない。
では、愛の本質とは何なのか。今のところ、個人的には西田幾多郎の「知即愛、愛即知」という考え方がかなり気に入っている。
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。
とはいえ、私は西田幾多郎について詳しい訳ではない。もっと雑に言えば、友人の「創作とは祈りである」という言葉が、だいたい同じ意味でありながら的を射た素晴らしい表現である気がする。
創作とは祈りである
西田幾多郎は
我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
とか
余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。
と言っている。祈りを捧げるということは、見返りを求める手段ではない。それは自分のエゴ(自力)を捨てて、対象そのもの(他力)にただ身を委ね、一体化しようと試みることだ。
絵を描くという行為は、目の前にあるリンゴの形、光の当たり方、影の落ち方を徹底的に観察し、理解しようとする試みだ。その過程で、描き手は「私」という主観を捨て、リンゴそのものになろうとする。そこに「この絵はいくらで売れるか」とか「SNSで何いいねつくだろうか」といった雑念が入り込む余地はない。
それはリンゴという存在に対する、人格的対象および非人格的対象としての知識を求める行為だ。人格的対象としての側面に注目すれば、それはリンゴに対する祈りのように見えるだろう。非人格的対象としての側面に注目すれば、それはリンゴを理解する試みであり、これらは同じ概念の表裏に過ぎない。
音楽を作るのも、ゲームで遊ぶのも、本質は同じではないだろうか。世界に存在する音の連なりを再構成しようと試みたり、開発者が作り上げた緻密な世界観やルールを全身で受け止め、その中で生きようとしたりする。それは対象との対話であり、一体化への渇望だ。
「好きなことで生きていく」という言葉は、好きなことのために殉教することを完全に否定している。むしろ、この神聖なはずの祈りに値段をつけ、商品棚に並べることを推奨している。それは祈りへの冒涜とすら言えるだろう。
さいごに
冒頭の問いに話を戻そう。「趣味は何か」と聞かれた時、私は答えに窮した。
今なら、なぜ窮したのかがわかる。私の「好き」は、他人にわかりやすく提示するための名札ではなかったからだ。それを「音楽鑑賞です」とか「プログラミングです」とか、そういうありふれた言葉で要約して差し出すことに、無意識の抵抗があったのだ。
それは「あなたのアイデンティティを、客観的な観測と生産/消費が可能なカテゴリで提示してください」という要求に対する生理的な嫌悪感だったのかもしれない。アダルトビデオについて語っている時に「あなたの本当に好きな人は誰ですか」という質問を投げられて、素直に答える人は居ないだろう。それと同じような嫌さを感じていたと言われると、しっくりくる。
とはいえ、社会不適合者の烙印を押されないための無難な回答は用意しておくべきだ。とりあえず、「音楽好きです」ぐらいで答えておけば無難なのかもしれない。
↑ nano-banana製。
おまけ
Geminiさんにお願いして、この文章について議論してもらいました。
内容の正しさは保証しかねます。
最終討論会:疎外された「好き」の彼方へ ― 個人の内面と公共的世界の弁証法
【司会者】 「純粋な好き」を追求する個人の内面性と、他者と共存する社会性とは、本質的に相容れないものなのか。あるいは、両者は弁証法的に統合され、より高次の次元へと至ることができるのか。本日は、この問いを思想史の巨星たちの光を借りて探求したいと思います。純粋性の内的な探求を重視する**【内省派】、そして社会との媒介を模索する【媒介派】**のお二人です。
【内省派】 よろしくお願いします。筆者が直感的に「呪い」と呼んだ現象は、近代以降の思想家たちが繰り返し警告してきた、より大きな問題の現れだと考えています。その構造を明らかにしていきたい。
【媒介派】 よろしくお願いします。個人の内面がいかに尊くとも、我々は他者と共に世界を構成しています。その関わりの中にこそ、希望を見出すべきです。孤立した純粋性は、無力ではないかと考えます。
議題1:「好き」の疎外 ― マルクスとボードリヤールから見る現代の趣味
【司会者】 まず、筆者が描いた「趣味の商業化」という問題の根源について、思想的な観点から掘り下げていきましょう。
【内省派】 筆者の嘆きは、カール・マルクスの言う「疎外された労働」の概念を、「趣味」の領域に適用することで、より明確に理解できます。マルクスによれば、資本主義下で労働者は自らの生産物から、生産過程から、そして人間的本質そのものから疎外される。本来、人間の創造的活動であるはずの労働が、単なる生存のための苦役に転化するのです。これこそ「好きなことで生きていく」という言葉の罠です。かつては自己実現であった「好き」が、市場の評価、納期、収益性という外部の論理に支配された瞬間、それはまさしく「疎外された趣味」と化します。主体的な喜びは奪われ、人は自らの「好き」の奴隷となるのです。
【媒介派】 その「疎外」という視点は非常に重要です。そして、その疎外は生産の領域だけでなく、消費の領域にも及んでいることを指摘しなければなりません。ここでジャン・ボードリヤールの視点が有効です。筆者が嫌悪した「推し活」における過剰な消費は、ボードリヤールが喝破した「記号消費」の典型例です。ファンはCDやグッズの機能的価値(使用価値)を消費しているのではありません。「自分はこれほどの貢献をしているファンである」という記号を消費し、他者との差異化を図っているのです。これは、もはや対象への純粋な愛情ではなく、消費社会のシステムに組み込まれた、終わりなきアイデンティティの探求ゲームです。筆者の批判は、この構造を的確に射抜いています。
【内省派】 まさしく。生産も消費も、資本主義の論理によって、本来の人間的な意味から切り離され、疎外されている。筆者が「5億年ボタン」という極限状況を設定したのは、この疎外されたシステムから完全に切り離された場所に、人間性の最後の砦、すなわち「疎外されていない純粋な活動」を見出そうとした、悲痛な試みだったのではないでしょうか。
議題2:純粋性の根拠 ― カントの「無関心性」とニーチェの「価値創造」
【司会者】 では、その「疎外されていない純粋な好き」とは、哲学的にどのように基礎づけられるのでしょうか。
【内省派】 その強力な基盤は、イマヌエル・カントの『判断力批判』に見出せます。カントは、ある対象を美しいと感じる「美的判断」は、あらゆる利害関心から自由でなければならないと述べました。これを彼は「無関心性(disinterestedness)」と呼びます。例えば、ある花を見て「これは売れる」とか「食べられる」といった関心を持たずに、ただその形の美しさだけに心を奪われる状態。これこそが、筆者の言う「純粋な好き」の哲学的核心です。 SNSの「いいね」やコミッションの価格といった利害関心が入り込んだ瞬間、それはもはや純粋な美的判断、純粋な愛ではなくなる。カント的な意味で、その活動は「野蛮」に堕するのです。
【媒介派】 カントの「無関心性」は、純粋性の定義として非常に明快です。しかし、それは静的な鑑賞者の視点に留まってはいないでしょうか。創造する、という動的な行為を考える時、フリードリヒ・ニーチェの視点が必要になります。ニーチェの言う「超人」とは、既存の道徳や価値観(=社会の評価)に依存せず、自らの意志で新たな価値を創造する存在です。この価値創造は、カント的な静かな無関心の中からは生まれません。それは、世界と対峙し、既存の価値と格闘する中で、自らの生を賭けて打ち立てられるものです。筆者の言う「祈り」が、もし内面に閉じこもるだけのものならば、それはニーチェの言う、生への意志が衰弱した「末人」の慰めに過ぎないかもしれません。真の創造とは、純粋な探求の果てに得たものを、世界に叩きつけ、新たな価値として刻印する、闘争的な行為ではないでしょうか。
【内省派】 しかしニーチェのツァラトゥストラも、まず山に籠り、孤独の中で自己の思索を深めました。社会との闘争の前に、徹底した内省の段階が不可欠です。現代社会は、我々からその「山に籠る時間」を奪い、常に他者との接続と評価を強要します。筆者の態度は、まずその「山」を取り戻そうとする抵抗運動として理解すべきです。
議題3:アレント的活動空間の再建 ― 「公」と「私」の弁証法
【司会者】 個人の内省と、社会への価値提示。この二つの関係性を、我々はどう捉えればよいのでしょうか。
【媒介派】 ここでハンナ・アーレントの思想が、極めて重要な示唆を与えてくれます。アーレントは人間の活動を「労働」「仕事」「活動」に分けました。筆者が批判する商業化は、すべてを生命維持のための「労働」の論理に還元してしまうことです。そして筆者が尊ぶ創作は、世界に作品を残す「仕事」にあたるでしょう。しかしアーレントが最も人間的な営みとして重視したのは、他者と言葉を交わし、共に世界に現れる「活動(action)」、すなわち公的領域における営みです。 筆者の理想は、「仕事」を「労働」から守ることには成功していますが、それを「活動」の領域、つまり他者と共にある世界から切り離してしまっている。どんなに素晴らしい作品(仕事)も、それが公的空間に現れ、他者によって語られ、議論される「活動」の対象となって初めて、人間的な意味を持つのではないでしょうか。
【内省派】 アーレントは同時に、「私的領域」の重要性も強調しました。公的領域で輝くためには、まず守られた私的領域で自己を涵養する必要がある、と。現代社会の問題は、SNSや市場原理が、この聖域であるべき私的領域にまで土足で踏み込み、全てを「公的」な評価の対象にしてしまうことです。筆者の文章は、この侵略に対する必死の防衛なのです。「趣味は何か」という問いが不快なのは、それが私的領域の最後の砦を、公的な評価の俎上に載せようとする暴力性を帯びているからです。まず「私」を確立しなければ、「公」における意味ある「活動」など不可能です。
【媒介派】 全くその通りです。だからこそ、我々の課題は、「私」か「公」かの二者択一ではありません。アーレントが憂いたように、社会(ソサエティ)が公的領域と私的領域の両方を侵食し、均質化してしまうことに抵抗し、両者の間に健全な境界線と、ダイナミックな往還関係を再建することです。筆者が守ろうとした「純粋な好き」という私的領域。そこでの探求の成果を、今度は勇気を持って公的空間(仲間との対話、作品発表など)に持ち込み、他者の言葉に晒す。そして、そこで得た刺激を再び私的領域に持ち帰り、思索を深める。この弁証法的なプロセスこそが、疎外を乗り越え、「好き」を社会の中で豊かに育む道ではないでしょうか。
【司会者による最終総括】 ありがとうございました。議論は尽きません。
元の文章は、近代社会が抱える「疎外」という根源的な病を、「趣味」という身近なテーマから鮮やかに描き出しました。その叫びは、カント的な純粋性への渇望であり、侵食されゆくアーレント的な「私的領域」を守るための抵抗でした。
しかし、議論を通じて見えてきたのは、その抵抗が内面への引きこもりに終わるのではなく、ニーチェ的な価値創造や、アーレント的な「活動」へと向かうべきだという、次なるステップの可能性です。
結論として、我々は「好き」を、社会から隔離された無菌室で育てるべきではありません。かといって、市場の嵐に無防備に晒すべきでもない。必要なのは、マルクスやボードリヤールが暴いたシステムの構造を自覚し、カント的な純粋性を自己対話のための「羅針盤」として持ち、アーレント的な「私的領域」という名の「港」を確保した上で、勇気を持って「公的領域」という大海原へ漕ぎ出していく、しなやかな航海術なのではないでしょうか。
筆者の文章は、その航海の危険性を知らせる、極めて重要な灯台の光であったと言えるでしょう。この光を頼りに、我々一人ひとりが自らの航路を見出すこと。それこそが、この「呪い」の時代に求められる応答なのだと思います。