最近、100分de名著「西田幾多郎“善の研究”」の回を視聴しました。

そしたらその中で河合隼雄『無意識の構造』に出てきた図が紹介されているではありませんか。

超ざっくり言えば、西田幾多郎の言う「善」というのは、各個人が、河合隼雄(=ユング)の言うところの「普遍的無意識」にあるものを発見することなのだそうです。

しかもしかも、西田幾多郎は円相図を好んでいたといいます。ジョーゼフ・キャンベルも大好きだったやつ!

ということで改めて調べてみたら、キャンベルに禅的な影響を与えた鈴木大拙は、西田幾多郎の親友だったとのこと。

そして、鈴木大拙の主著『禅仏教入門』に序文を寄稿したのは、他ならぬユングだったのです。

これは大変なことです。西田幾多郎を通して、個別の興味が一つに繋がってしまいました。

世界のへそ

『千の顔を持つ英雄』の冒頭に、「教会とかは世界のへそだけど、全ての人間はそれ自体が世界のへそである(と見出すべし)」みたいな文があったはずです。この意味がよくわからなかったのですが、西田幾多郎の「永遠の今」という言葉を介してようやく理解できた気がしています。

西田幾多郎によれば、

永遠の今 nunc aeternum など云へば、すぐ神秘的と考へられるかも知らぬが、神秘学者はそれによって「永 遠なるもの」即ち神を考へた。併し私の永遠の今の限定といふのは唯、現在が現在自身を限定することを意味す るのである。移り行く時と永遠とは現在に於て相触れて居るのである、否、現在が現在自身を限定するといふこ の現在を離れて、永遠といふものがあるのではない、現在が現在自身を限定すると考へられる所に真の永遠の意 味があるのである。

ということです。これを読んでまず思い出したのは、T.S.エリオット『四つの四重奏』です。

Time present and time past

Are both perhaps present in time future,

And time future contained in time past.

If all time is eternally present

All time is unredeemable.

現在の時と過去の時は

おそらく未来の時のうちに共にあり、

そして未来の時は過去の時に含まれている。

もしすべての時が永遠に現在であるならば

すべての時は贖いようがない。

At the still point of the turning world. Neither flesh nor fleshless;

Neither from nor towards; at the still point, there the dance is,

But neither arrest nor movement.

回る世界の静止の点にて。肉でもなく、肉ならぬものでもなく。

そこからでもなく、そこへでもなく。静止点にて、そこに舞踏はある、

しかし静止でもなければ動きでもない。

四つの四重奏の中には、「世界の終わり(巡礼の終着点)は今ここ(イングランド)である」みたいな文もあったはずです。

これらのアイデアの類似には驚くべきものがあります。西田幾多郎は「永遠の今というのは神秘学者の言う神ではない」と言ってはいるものの、「永遠の今」=「回る世界の静止の点」=「巡礼の終着点」=「世界軸」=「世界のへそ」と考えると、色々と腑に落ちてきます。

つまり、キャンベルの「全ての人間は世界の中心である」という言葉は、かつて教会などの特定の場所に求められていた「聖なる中心」が、実は私たち一人ひとりの内側にある「永遠の今(=世界の中心)」にあるのだということに目覚めよ、というメッセージであり、超越的な神を「外部」に置く西洋的な発想から、真理を「内部」に見出す東洋的な(西田幾多郎/鈴木大拙的な)発想へ転換せよということだったのではないでしょうか。

……これ以上は、本格的に西田幾多郎について学ぶ必要がありそうです。

地図

改めて、興味を惹かれる領域の主要な人物と影響の関係を図にしてみました。

有名人の正確な生年と没年なんて一体何の役に立つんだと思ってましたが、こういうときに因果を逆転させないために必要だったんですね…

真の地図

なんかこの図だと、「西田幾多郎によって全てが結びついた!」という驚きが伝わらないかもしれません。そこで、正気を失った真の地図を用意しました。

流石に意味がわからないと思うので説明します。

実は、西田幾多郎に挑戦したのはこれが初めてではありませんでした。最初の挑戦は高校時代に遡ります。

しばらく東方から離れていたが、高校の修学旅行中、そんなに親しいわけでもなかった友人(PCの授業の際に私が「ぱちゅコン」を遊んでいたのを後ろから見ていたらしい)から話しかけられ、東方の話で盛り上がり、関心が再燃。帰宅後、久しぶりに「東方地霊殿」をプレイし、Ex道中の「ラストリモート」に衝撃を受けた。

さて、この修学旅行先とは京都です。そして東方オタクとしては当然、ゆかりがありそうな寺社仏閣を、班の行動計画にこっそりと織り交ぜるものです。

そのような試みの中に、京都の「哲学の道」がありました。

これらの要素を結びつけたのは、東方元ネタWikiの以下の記述です。

  • 哲学の道
    • 京都にある熊野若王子神社から銀閣寺まで続く小道のこと。
      • 熊野神社のシンボルは八咫烏である。
      • 哲学者の西田幾多郎が歩いたことにちなみ、命名された。西田哲学とは、われわれの意識を成り立たせる無意識や身体について立てられた理論を中心とした哲学である。

こじつけにもほどがある。が、少なくとも当時の私はこの記述に同意していました。地霊殿Exステージは哲学の道で繰り広げられているのです。この件に関して大昔に書いた怪文書がコンピュータのどこかに残っている気がする。

そんなわけで、古明地こいしちゃんと西田幾多郎の思想に一体どんな関係があるのかと『善の研究』に挑み、速やかに挫折しました。それが、私の西田幾多郎との最初の出会いです。

正気度を更に削っていきましょう。私の中で、古明地こいしちゃん、かばんちゃん、シャミ子は本質的に同じ存在であるという認識があります。

西田幾多郎は「現実の世界は絶対矛盾的自己同一」であると言います。これはどういうことかというと、(私の知る限りでは)「異なるものが異なるままに一つになっている」ということです。これを「動物と人間」という個物に対して実現したのがかばんちゃんであり、「光と闇」という個物に対して実現しようとしているのがシャミ子です。

こいしちゃんとシャミ子については、無意識領域への侵入という能力的な側面で類似していることに同意いただけるはずです。こいしちゃんとかばんちゃんについては、その姿が類似しています。

つまり彼女たちは「三の顔を持つ英雄」なのです。このトリニティに対して何らかの意味付けを行うことが、私のここ5年くらいの課題でした。そして上記の図を見て分かる通り、西田幾多郎は彼女たちにかなり大きな影響を与えているように見えます。

それゆえ、西田幾多郎と向き合う時が遂に来た、と感じているわけです。

Gemini曰く

まだ何も調べられてないので、とりあえず西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベルについてGeminiのDeep Researchに調べてもらった内容を貼っておきます。内容の正確さはこれから検証します。少なくともジョーゼフ・キャンベルに関する記述で大嘘はついてなさそう。


西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベル:邂逅なき思想家たちの対話

序論:邂逅なき思想家たちの対話

20世紀の思想史において、東洋と西洋の知の地平をそれぞれ独自の方法で切り拓いた二人の巨人が存在する。日本の哲学者・西田幾多郎(1870-1945)とアメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベル(1904-1987)である。本報告書は、直接的な書簡の交換や会合といった歴史的接点を持たなかったこの二人の思想家の間に存在する、深く、そして驚くべき思想的共鳴と間接的な関係性を解明することを目的とする。現存するキャンベルの書簡集や論文には、西田幾多郎への直接的な言及は見当たらず、両者が互いの著作を読んでいたという確たる証拠は存在しない。

しかしながら、直接的な交流が確認できないにもかかわらず、なぜ両者の思想は「自己の変容」「経験の根源性」「個と普遍の関係」といった主題において、かくも響し合うのであろうか。本稿は、この問いを探求の出発点とする。この謎を解き明かすにあたり、本研究は核心的な視座として、二人の関係性を結ぶ鍵となる人物の存在を位置づける。それは、西田の無二の親友であり、キャンベルに絶大な影響を与えた禅仏教学者・鈴木大拙(D.T. Suzuki, 1870-1966)である。鈴木を「思想の架け橋」として分析の俎上に載せることで、西田の哲学の根底にある禅的経験が、鈴木という類稀な媒介者を通して変容し、キャンベルの神話学の豊かな土壌に流れ込んでいった過程を明らかにすることができる。

本報告書は三部構成を採る。第一部では、西田幾多郎の哲学体系を「純粋経験」から「場所の論理」、そして「絶対矛盾的自己同一」へと至る思索の軌跡を辿りながら概観する。第二部では、ジョーゼフ・キャンベルの神話学を、その核心である「英雄の旅(モノミス)」と「神話の四つの機能」、そして東洋思想との関わりに焦点を当てて解説する。そして第三部において、鈴木大拙という架け橋の役割を分析した上で、両者の思想を比較分析し、その根源的な経験論、自己変容の構造、そして普遍性へのアプローチにおける交差点と分岐点を詳細に論じる。これにより、邂逅することのなかった二人の思想家が、いかにして「異なる山頂から同じ月を望んでいたか」を明らかにしていく。

【表1:比較年表】西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベルの生涯と主要著作

この年表は、西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベルの活動期間、主要著作の発表時期、そして両者の間を思想的に媒介した鈴木大拙の欧米での活動時期を並置することで、思想形成の時代的背景と間接的影響の可能性を視覚的に提示するものである。西田の没年(1945年)と、キャンベルの主著『千の顔を持つ英雄』の刊行年(1949年)を比較すると、西田哲学がその体系を完成させた後に、キャンベルの思想が成熟期に入ったことが明確に見て取れる。この時間的配置は、西田の思想的盟友であった鈴木が、西田哲学の根底にある禅的経験を西欧世界に紹介し、それがキャンベルの思想形成に影響を与えたという、本報告書の中心的な仮説の蓋然性を示唆している。

年代西田幾多郎 (1870-1945)鈴木大拙 (1870-1966)ジョーゼフ・キャンベル (1904-1987)
1870s1870年 石川県に生まれる1870年 石川県に生まれる
1890s1891-94年 東京帝国大学選科で学ぶ。禅の修行を始める。1893年 シカゴ万国宗教会議に参加。
1900s1897-1909年 渡米し、ポール・ケーラスのもとで東洋思想の英訳・紹介に従事。1904年 ニューヨーク州に生まれる。
1910s1910年 京都帝国大学助教授就任。 1911年 **『善の研究』**刊行。
1920s1926年 論文「場所」を発表し、「場所の論理」を展開。1924年 欧州への船上でクリシュナムルティと出会い、東洋思想に関心を深める。 1927-29年 ヨーロッパに留学。ユング、ジョイス、マンらの影響を受ける。
1930s後期哲学「絶対矛盾的自己同一」の思索を深める。1934年 『大乗仏教概論』(英文)刊行。 1936年 英国・米国大学で講演。 1938年 『禅と日本文化』(英文)刊行。1934年 サラ・ローレンス大学教授に就任(-1972年)。
1940s1945年 鎌倉にて逝去。1949年 **『千の顔を持つ英雄』**刊行。
1950s1951年以降 コロンビア大学等で講義。アラン・ワッツ、ジョン・ケージらに影響を与える。1950年代 ユング派が主宰するエラノス会議に参加。 1959年 『神の仮面 第1巻:原始神話学』刊行。
1960s1966年 聖路加国際病院にて逝去。1960年代 『神の仮面』シリーズを継続刊行。
1970s1972年 サラ・ローレンス大学を退官。
1980s1987年 ハワイにて逝去。 1988年 ビル・モイヤーズとの対談**『神話の力』**が放映・出版される。

第一部:西田幾多郎の哲学――経験の深淵と「無」の論理

第1章:純粋経験の地平

西田幾多郎の哲学体系は、その出発点において「純粋経験」という独創的な概念を据えている。これは、主観(私)と客観(世界)が分離する以前の、判断や反省といった知的操作を一切交えない、直接的で具体的な経験そのものを指す。西田は『善の研究』において、「色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感ぜているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」の状態こそが「経験の最醇(さいじゅん)なる者」、すなわち最も純粋な経験であり、唯一の実在であると断言した。

この「純粋経験」の提唱は、単にある特殊な意識状態を記述するに留まらない。それは、哲学の foundational な問いに対する、根本的な視点の転換を宣言するものであった。多くの解説が、美しい音楽への没入やスポーツ選手の集中状態を例に挙げ、純粋経験を心理的な「フロー状態」として説明するが、西田自身の意図はよりラディカルである。彼の「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」という言葉が示すように、これは心理学の範疇を超えた、存在論(ontology)の再構築を目指す試みであった。デカルト以来の近代西洋哲学が、「我思う(主観)」と「延長(客観)」という二つの実体を世界の根源に据えたのに対し、西田はその二元論的前提そのものを疑う。彼によれば、主観も客観も、より根源的な「経験という出来事」から事後的に分化し、抽象されたものに過ぎない。「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」という逆転の思想は、哲学の土台を静的な「存在(being)」から、動的な「経験すること(experiencing)」へと転換させるという、壮大な形而上学的プロジェクトの狼煙であった。

この独創的な思想の源泉には、西田が青年期から生涯にわたって続けた禅の修行体験が深く横たわっている。主観と客観が一体となる「心境一如」や、自己と万物が一体であると感じる「万物一体」の境地は、彼の哲学の原体験となった。禅における「不立文字(ふりゅうもんじ)」、すなわち言葉や論理による分別を離れた直接的な覚知の重視は、西田が知的判断以前の経験に真の実在を見出したことと深く響き合っている。西田哲学が「近代日本における最初の独創的な哲学」と評されるのは、この禅的体験を西洋哲学の論理的厳密さをもって体系化しようとした、その前人未到の試みにこそある。

第2章:「場所」の発見

哲学キャリアの中期において、西田は初期の「純粋経験」の思想をさらに深化させ、それを論理的に基礎づけるための新たな概念的地平を切り拓いた。それが「場所の論理」である。この論理は、「有るものは何かに於てあると考えざるを得ない」という、素朴でありながら根源的な直観から出発する。あらゆる個物、あらゆる事象が、それとして存在するためには、それが「於いてある」ところの「場」がなければならない。西田の問いは、個々の存在者(what)から、存在を可能にする場(wherein)へと移行したのである。

西田の思索が到達した結論は、この究極的な「場所」は、何か特定の「有」として規定されるものではなく、「絶対無」でなければならないというものであった。ここで言う「無」は、西洋哲学における「無(nothing)」、すなわち単なる存在の欠如や空虚とは根本的に異なる。西田の「絶対無」は、むしろ老荘思想の「道(タオ)」や仏教の「空(シューニャター)」に近い、肯定的で創造的なポテンシャルを秘めた概念である。それは、あらゆる存在者をその内に包み込み、それぞれの個物として成立せしめる、豊かでダイナミックな可能性の場(プラトンの言うコーラにも通じる)なのである。西田自身、この「場所」を、あらゆるものをその上に広げることができる巨大な風呂敷や、万物を映し出しながらそれ自体は無色透明である鏡に喩えている。

論理学の形式を借りて言えば、この「場所」は「主語となって主語とならない述語面」として規定される。例えば、「あの夕日は赤い」という判断において、「夕日」は個物としての主語(S)であり、「赤い」は普遍的な性質としての述語(P)である。従来の論理では、SとPは別個の存在であり、判断によって結びつけられる。しかし西田は、この判断が成立するのは、「夕日」という特殊者が「赤さ一般」という普遍者の「場所」において自己を限定することによってである、と考えた。つまり、普遍者(場所)が、個物(主語)をその内に包み込み、成立せしめるのである。

この「場所の論理」は、単に静的な「容器」や「舞台」を想定するものではない。西田の思索が深まるにつれて、「場所」はより動的な性格を帯び、個物と相互作用する「環境」として捉え直される。個物は環境に影響を与え、環境は個物を規定するという相互限定的な関係性が生まれる。このダイナミズムは、やがて「場所が場所自身を限定する」という自己言及的な運動へと至る。これは、場が単に物を受け入れるだけでなく、場自体が自己を変容させ、新たな個物を生み出していく創造的なプロセスであることを意味する。したがって、西田の「場所」は、静的な論理的基盤に留まらず、個人の「自覚」や歴史的創造といった自己変容のプロセスが展開される、生命的でダイナミックな「フィールド」として理解されなければならない。

第3章:絶対矛盾的自己同一と自己の形成

西田哲学が最終的に到達した核心概念が、「絶対矛盾的自己同一」である。この難解な術語が指し示すのは、我々が生きる現実世界は、その根源において矛盾を内包しているという深遠な認識である。生と死、一と多、普遍と特殊、自己と世界といった、論理的には相容れない対立項が、互いを否定し、媒介とし、相互に限定し合うことによって、初めて現実の世界がダイナミックに形成される、と西田は考えた。

この論理は、対立(テーゼとアンチテーゼ)を乗り越え、より高次の段階で統合(ジンテーゼ)するヘーゲル的な弁証法とは一線を画す。西田の弁証法においては、矛盾は解消されるべきものではなく、むしろ実在の根源的なあり方そのものである。絶対的な「無」の場所において、対立するものは対立したままでありながら、一つのものの自己同一性の契機となる。例えば、個物(特殊)は普遍的な「場所」を否定することによって個物たりえるが、同時にその「場所」においてのみ存在できる。逆に、普遍的な「場所」は個物において自己を限定することによってのみ、その働きを現すことができる。このように、絶対的に矛盾するものが相互に依存し合って成立している状態こそが、現実の姿なのである。

この「絶対矛盾的自己同一」の論理は、人間における「自己」の形成、すなわち「自覚」の構造を解明する鍵となる。西田によれば、真の自己とは、固定的な実体としての自我(エゴ)ではない。それは、絶え間ない自己形成のプロセスそのものである。真の自己は、自己否定を通じて、つまり日常的な自我意識を超克することによってはじめて、より根源的な自己へと至る。西田が「自己が自己自身を知る自覚という事が、自己矛盾である」と述べたように、自覚とは、自己が自己を対象化し(自己からの離脱)、同時にその対象化した自己と一体となる(自己への帰還)という矛盾した運動なのである。この自己変容のプロセスは、個物が普遍(場所)を内に映し、普遍が個物において自己を限定するという、止むことのない創造の過程に他ならない。


第二部:ジョーゼフ・キャンベルの神話学――元型の旅と心の探求

第1章:千の顔を持つ英雄

アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、世界中の神話、伝説、民話を網羅的に比較研究する中で、それらの物語が文化や時代、地域を超えて、驚くほど共通した基本的な構造を持っていることを発見した。彼はこの普遍的な物語のパターンを「モノミス(Monomyth、単一神話)」、あるいはより広く知られる「英雄の旅(The Hero’s Journey)」と名付けた。

キャンベルが主著『千の顔を持つ英雄』(1949年)で提示した「英雄の旅」の構造は、大きく分けて「分離(Separation)」「試練(Initiation)」「帰還(Return)」という三つの主要な段階から構成される。この旅は、日常の世界に暮らす主人公が「冒険への召命(The Call to Adventure)」を受けることから始まる。当初、主人公はこの召命を拒否することもあるが、やがて「賢者(メンター)との出会い」などを通じて旅立ちを決意し、「第一の境界線を突破(Crossing the First Threshold)」して非日常的な世界へと足を踏み入れる。未知の世界で、主人公は様々な「試練、仲間、敵(Tests, Allies, and Enemies)」に遭遇し、成長を遂げていく。旅のクライマックスは、最も危険な場所の奥深くで「最大の苦難(The Ordeal)」に直面し、死と再生を経験する。この試練を乗り越えた英雄は、究極の宝である「報酬(The Reward)」を手に入れ、最後に変容を遂げた姿で「故郷へ帰還(The Return)」する。この円環構造こそが、古今東西の英雄物語に通底する骨格であるとキャンベルは論じた。

「英雄の旅」は、単なる物語の類型論に留まるものではない。キャンベルにとって、それは個人の内面的な成長、自己発見、そして心理的統合のプロセスを象徴する、普遍的なメタファーであった。英雄が旅の途上で対峙するドラゴンや怪物は、しばしば自身の内なる恐怖、抑圧された欲望、未熟さといった「影(シャドウ)」の象身であり、旅の過程は、意識と無意識の領域を統合し、より成熟した全体的な人格へと至るための心理的な道筋を示している。このモデルは、ジョージ・ルーカスが映画『スター・ウォーズ』の物語を構築する上で多大な影響を受けたと公言しているように、現代の物語創作や心理療法、自己啓発の分野にまで、絶大な影響を与え続けている。

第2章:神話の力

キャンベルは、科学技術が支配的となった現代社会において、人々が神話から切り離され、人生の意味や生きる喜びを見失いがちであると深く憂慮していた。彼にとって神話学は、書斎に籠もるだけの学問ではなく、失われた神話の力を現代に蘇らせ、人々が「いま生きているという経験(the experience of being alive)」の豊かさを取り戻すための、極めて実践的な営みであった。彼の後期の代表作である『神話の力』において、神話が現代においてもなお果たしうる四つの重要な機能が提示されている。

  1. 神秘的・形而上学的機能(The Mystical/Metaphysical Function): 神話は、我々を取り巻く宇宙の計り知れない神秘に対する畏怖の念を喚起する。それは、言葉や理性を超えた存在の根源に触れる体験へと我々を開く窓となる。
  2. 宇宙論的機能(The Cosmological Function): 神話は、世界がどのようなものであるかという包括的なイメージを提示する。科学が「どのように」を説明するのに対し、神話は宇宙の全体像とその中における人間の位置を、象徴的な物語を通じて示す。
  3. 社会学的機能(The Sociological Function): 神話は、特定の社会秩序を是認し、維持する役割を担う。それは、その社会における倫理規範や通過儀礼を定め、個人が共同体の中でどのように振る舞うべきかのモデルを提供する。
  4. 心理学・教育的機能(The Psychological/Pedagogical Function): 神話は、人間が誕生から成熟、老い、そして死に至るまでの生涯の各段階を、いかにして意義深く生き抜くかを示す導きとなる。英雄たちの物語は、我々自身の人生の旅路における困難を乗り越えるための手引きとなる。

キャンベルは、これらの機能、特に第四の心理学的機能を重視した。彼は、神話が個人の内面的な旅を導き、自己の最も内なる存在と共鳴するような生き方を実現するための、時代を超えた叡智の宝庫であると考えたのである。

第3章:東洋思想との共鳴

ジョーゼフ・キャンベルの広範な思想体系は、西洋の古典のみならず、東洋の深遠な精神的伝統からも多大な影響を受けている。その知的背景を理解する上で、二人の思想家の存在が特に重要である。

第一に、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングである。キャンベルの比較神話学は、ユングの分析心理学、とりわけ「元型(Archetype)」と「集合的無意識(Collective Unconscious)」の概念に深く根ざしている。世界中の全く異なる文化圏の神話に、英雄、賢者、太母(グレートマザー)、トリックスターといった共通の登場人物やモチーフが見られるのは、人類がその心の最深層に、種として共有する無意識の領域(集合的無意識)を持ち、そこにこれらの普遍的な元型が潜在しているためだとキャンベルは考えた。英雄の旅は、この集合的無意識の領域へと下降し、元型的な力と対峙し、それを自己の意識へと統合していくプロセスとして解釈された。

第二に、日本の禅仏教学者、鈴木大拙である。キャンベルは1924年のヨーロッパ旅行の帰路、船上で神智学のジッドゥ・クリシュナムルティと出会い、インド思想への関心を深めたが、彼の東洋理解を決定的に方向づけたのは鈴木大拙であった。キャンベルは、アラン・ワッツら当時のアメリカの知識人たちと同様に、鈴木がコロンビア大学で行った講義に参加し、その著作を熱心に読んだ。鈴木が西洋に紹介した禅は、特定の教義や経典に依拠するのではなく、論理や分別を超える「直観的な体験」を至上とする「経験の哲学」としての側面が強調されていた。この姿勢は、神話がもたらす直接的で変容的な体験を重視するキャンベルの思想と強く共鳴した。キャンベルは、ある講演で鈴木の言葉を引用し、西洋の「神への信仰」と東洋の「神との一体性の経験」を対比させ、後者の優位を明確に論じている。鈴木を通じて、キャンベルは東洋思想のうちに、自身の神話学が探求する「生きられる叡智」の具体的な実践を見出したのである。

キャンベルの思想が単なる学術研究に留まらず、多くの人々の生き方に影響を与える力を持った背景には、こうした普遍的な神話のパターンを、現代人が「個人的な」人生を生きるための指針として提示した点がある。彼の有名なモットーである「汝の至上の幸福に従え(Follow your bliss)」という言葉は、この実践的な側面を象徴している。神話は、個人の外部にある絶対的な真理として崇拝されるべきものではなく、むしろ個人の内なる可能性を引き出し、自己実現を助けるための「道具」や「地図」として再解釈される。このアプローチは、個人主義と自己実現を重んじるアメリカの文化的土壌と非常に高い親和性を持ち、彼の思想が広く受け入れられる要因となった。キャンベルの業績は、普遍的な神話の構造を用いて、近代以降の個人が自らの人生に意味を見出すための「実践的な精神的テクノロジー」を創出した点にあると評価できる。


第三部:間接的経路と思想的交差点

【表2:概念的パラレル】西田哲学とキャンベル神話学における主要概念の比較

以下の表は、西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベルの思想体系の中核をなす概念を、「根源的経験」「自己変容の道程」「普遍性の基盤」「対立物の統合」という四つの共通主題に沿って比較し、その構造的類似性(収斂点)と哲学的差異(分岐点)を明確にするものである。この表は、本章で展開される詳細な比較分析の全体像を把握するためのロードマップとして機能する。一見、全く異なる語彙で語られている両者の思想が、いかに深いレベルで共通の問題意識を共有し、また、いかに異なる仕方でその問いに答えようとしたかを示している。

主題西田幾多郎の概念ジョーゼフ・キャンベルの概念収斂点(Convergence)分岐点(Divergence)
根源的経験純粋経験神話的経験 / 生の経験主観と客観が未分化な、直接的・体験的次元の絶対的な重視。方法論: 厳密な哲学的内省(禅的観照)を通じて実在の根源に至ろうとするのに対し、物語への参与(象徴の追体験)を通じて生の全体性を回復しようとする。
自己変容の道程自覚 (Jikaku)英雄の旅 (Hero’s Journey)日常的自我の限界を超克し、より深層の自己へと至る段階的なプロセスとしての自己変容のモデル。目的論: 自己の根源である「絶対無」を覚知する存在論的覚醒を目指すのに対し、試練を経て得た叡智を共同体に持ち帰る心理社会的統合と帰還を重視する。
普遍性の基盤絶対無の場所 (Basho of Absolute Nothingness)モノミス / 元型 (Monomyth / Archetypes)個別的な存在や物語を超えた、全ての人間存在に通底する普遍的な構造・基盤の探求。性質: あらゆる存在を可能にする形而上学的な「無」の場(フィールド)としての普遍性に対し、人類共通の心理的構造(集合的無意識)に根差す物語の「型」(フォーム)としての普遍性。
対立物の統合絶対矛盾的自己同一試練と報酬 / 影の統合矛盾・対立(善悪、生死、意識/無意識)が変容と成長の鍵であるという認識。論理: 矛盾するものが矛盾したまま統一される「場所」の論理(同時的存在)に対し、葛藤を克服し、対立項を統合していく物語的時間の中での成長。

第1章:鈴木大拙という架け橋

西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベルの思想的共鳴を解明する上で、鈴木大拙の存在は不可欠である。彼は単なる仲介者ではなく、思想の「変圧器」であり「翻訳者」として機能した。

西田と鈴木は、石川県の第四高等中学校時代からの無二の親友であり、生涯にわたって深い知的交流を続けた。二人は共に禅の修行に深く身を投じたが、その経験の表現方法は対照的であった。西田が自らの禅体験を西洋哲学の概念装置を用いて、あくまで普遍的な「論理」として体系化しようと苦闘したのに対し、鈴木は禅そのものの精神と文化を、平易かつ力強い英語で西洋世界に直接紹介する役割を担った。

鈴木が西欧に伝えた「ZEN」は、日本の特定の宗派的教義に限定されるものではなかった。彼は、禅を西洋の神秘主義、心理学、さらには実存主義とも対話しうる、普遍的な「経験の哲学」として提示した。彼が強調したのは、教義への信仰ではなく、分別知を超える直接的な体験(satori)の重要性であり、このアプローチは、既存の宗教的権威に懐疑的であった当時の西洋の知識人層に大きな影響を与えた。

ジョーゼフ・キャンベルもまた、この鈴木の「ZEN」に深く魅了された一人であった。彼は、アラン・ワッツらと共に、鈴木がコロンビア大学で行った講義に感銘を受け、その著作を熟読した。特に、鈴木が提示した「経験」を絶対的に重視する姿勢は、キャンベルが神話を単なる古代の物語ではなく、現代に生きる我々が内面的に体験しうる「心理的現実」として捉える視点を、決定的に強化したと考えられる。

ここに、西田からキャンベルへと至る間接的な思想の経路が浮かび上がる。この経路は、情報の単純な伝達ではない。それは、一つの思想的源泉が、異なる文化的文脈で再解釈され、変容していくダイナミックなプロセスである。西田の極めて難解で抽象的な哲学 が、そのまま大西洋を渡ってキャンベルに影響を与えたとは考えにくい。そうではなく、西田哲学の根底にある「主客未分の禅的経験」という核心部分が、まず鈴木という卓越した翻訳者によって、西洋人が理解可能な「心理学的・体験主義的」言説へと「翻訳」された。そして、ユング心理学という受容の土壌をすでに持っていたキャンベルが、この「解釈された禅」を自身の神話学の体系へと吸収・統合したのである。この意味で、キャンベルは西田の哲学を知らずして、その思想の源流から派生した豊かな水脈に触れていた、と言うことができる。

第2章:経験のプリマシー――「純粋経験」と「生きられる神話」

西田とキャンベルの思想を比較する際、最も顕著な共通点は、両者が抽象的な理論や教義よりも、直接的で具体的な「経験」に絶対的な優位性(プリマシー)を置いたことである。

西田が哲学の出発点とした「純粋経験」は、主観と客観、知るものと知られるものが分離する以前の、生々しい直接体験を真の実在と見なすものであった。彼にとって、世界はまず経験として与えられ、主観や客観といった概念は、その根源的な経験を後から反省し、分析することによって生まれる二次的な産物に過ぎなかった。この視点から、真の「知」とは、対象を客観的に分析し、知識として所有することではない。むしろ、対象と自己との区別が消え、一体となること、すなわち西田が「愛即知、知即愛」と呼んだ関係性の中にこそ、真の認識は成立するのである。

一方、キャンベルもまた、神話を単なる研究対象や過去の遺物としてではなく、「いま生きているという経験」を豊かにし、人生に意味を与えるための生きた力として捉えた。彼にとって神話の価値は、その物語が歴史的事実であるか否かにあるのではなく、その象徴的な物語を追体験することを通じて、我々自身の内面に深い変容をもたらす点にあった。神話を読むことは、英雄の旅路に心理的に参与し、彼らが直面する試練や葛藤、そして死と再生を、我々自身の人生のメタファーとして体験することなのである。

このように、両者はそれぞれの分野において、知のあり方を根本的に問い直した。西田は哲学の領域で、キャンベルは神話学の領域で、知を客観的に「所有」するものから、主体的に「参与」するものへと転換させようと試みた。西田が禅的観照を通じて主客合一の「純粋経験」に至ろうとしたように、キャンベルは神話への参与を通じて自己と元型が一体となる「神話的経験」を呼び覚まそうとした。両者の目指したものは、思考や分別によって断片化された自己と世界を、根源的な経験の次元において再統合することであったと言えるだろう。

第3章:自己変容のトポロジー――「場所」と「英雄の旅」

西田とキャンベルの思想は、共に人間の「自己変容」をその中心的な主題としている。そして驚くべきことに、両者が提示した自己変容のモデルは、その表現形式こそ哲学と神話学で異なるものの、その構造(トポロジー)において顕著な平行性を示している。

キャンベルの「英雄の旅」は、自己変容が展開される物語的な空間(ジャーニー)の構造を描き出す。それは、日常からの離脱、深層への下降と試練、そして根源への到達と変容を経て、再び日常世界へと帰還するという明確な位相を持つプロセスである。

  1. 日常からの離脱: 旅は「冒険への召命」と「境界線の突破」から始まる。これは、安定した日常的な自我意識(西田の言う「反省的意識」)の状態から、より根源的で未知なる自己の領域へと向かう第一歩に対応する。
  2. 深層への下降と試練: 英雄が未知の世界で怪物と戦い、様々な試練に直面する段階は、自己が内なる矛盾(西田の言う「絶対矛盾」)と向き合い、自己否定を媒介としてより深い次元へと深化していくプロセスと類比的である。
  3. 根源への到達と変容: 英雄が「最大の苦難」を乗り越え、死と再生を経験し、「報酬」を得る旅のクライマックスは、自己がその存在の根源に触れ、新たな全体性を持つ自己として再形成される瞬間に対応する。
  4. 世界への帰還: 変容を遂げた英雄が、得た叡智を携えて日常世界へと帰還するプロセスは、根源的な覚醒を得た自己が、再び歴史的・社会的現実の中で創造的に「働くもの」となることに対応する。

一方、西田の「場所の論理」は、自己変容が起こるための論理的な空間(トポス)の構造を明らかにする。彼の哲学において、自己の深化、すなわち「自覚」のプロセスは、意識の表層から深層へと、段階的に展開していく。それは、対象を認識する「有の場所」から、意識作用そのものを捉える「対自的無の場所」へ、そして最終的には意識そのものを超えた根源である「絶対無の場所」へと至る道程である。この「絶対無の場所」に触れることによって、自己は日常的な自我の束縛から解放され、真の自由を獲得し、創造的な自己として世界に働きかけることができるようになる。

西田の「場所」が自己変容の論理的・垂直的な深まりの構造を示すとすれば、キャンベルの「英雄の旅」は自己変容の物語的・水平的な展開の構造を示す。両者は異なる語彙とアプローチを用いながらも、日常的自己の死と、より根源的な自己の再生という、自己変容の普遍的なトポロジーを描き出している点で、深く共鳴しているのである。

第4章:普遍性への問い――「絶対無」と「モノミス」

西田とキャンベルは、共に個別の文化や個人の経験を超えた、人間存在に通底する普遍的な次元を探求した思想家であった。しかし、両者が捉えた「普遍性」の性質は、その思想的背景の違いを反映し、根本的に異なっている。この差異を明らかにすることは、両者の知的関係を正確に位置づける上で決定的に重要である。

キャンベルが探求した普遍性は、世界中の神話に共通して見出される物語の「形(Form)」、すなわち「モノミス」や「元型」であった。彼は、多様な文化の神話の中から、英雄の旅という共通の「骨格」や、賢者、太母といった元型的な登場人物を経験的に抽出し、そのパターンを提示した。この普遍性の根拠は、ユングの集合的無意識の理論に求められる。つまり、人類が心理的なレベルで共有する無意識の層に、これらの元型的な「形」がアプリオリに存在し、それが世界各地で多様な神話として表現される、と考えられたのである。キャンベルのアプローチは、多様性の中に通底する「一つの物語」を見出す、構造主義的な性格を持っている。

それに対し、西田が探求した普遍性は、特定の形を持たない、あらゆる形(個物)の存在を可能にする「場(Field)」、すなわち「絶対無の場所」であった。彼の問いは、「どのような共通の形があるか」ではなく、「形あるもの(個物)が存在するとは、どのような場において可能か」という、より根源的なものであった。西田の「場所」は、それ自体は「無」であり、特定の性質を持たない。しかし、まさに無であるからこそ、あらゆる対立的な性質(有と無、一と多)をその内に含み、全ての個物を成立せしめることができる。この普遍性は、個物の中に現れる共通の性質ではなく、個物がその中に現れるための、いわば「形式の普遍性」あるいは「成立基盤の普遍性」である。

この対比は、西洋哲学におけるプラトン的なイデア論(形相の哲学)と、東洋思想、特に仏教における空(縁起の哲学)の対比に擬えることができる。キャンベルは、ユング心理学を経由することで、無意識のうちに元型というプラトン的イデアの心理学的変奏に接近した。一方、西田は明確に仏教の空の思想を哲学的基盤に据え、西洋の存在論(形相論)を乗り越えようと試みた。したがって、両者は共に普遍性を探求しながらも、キャンベルは「内容の普遍性(共通の物語)」を、西田は「形式の普遍性(共通の成立基盤)」を、その源泉とした。この根本的な分岐点を認識することなくして、両者の思想の真の比較はありえない。


結論:異なる山頂から同じ月を望む

本報告書が詳細に論じてきたように、日本の哲学者・西田幾多郎とアメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルの間に、書簡の交換や直接的な会合といった歴史的な接点は存在しなかった。しかし、彼らの思想は、あたかも遠く離れた二つの山頂から同じ月を望むかのように、驚くべき主題的収斂を示している。

この関係性を総括するならば、それは直接的な「影響」ではなく、共通の知的源流から発し、異なるルートを辿りながら同じ人間的課題へと向かった「思想的収斂」として捉えるのが最も適切であろう。その収斂を可能にした媒介者こそ、西田の親友であり、キャンベルに多大な影響を与えた鈴木大拙であった。西田哲学の根源にある禅的経験の核心、すなわち主客未分の直接体験と自己変容への問いが、鈴木という類稀な「知の翻訳者」を通して、西洋の心理学的・神話学的言説へと変容を遂げ、キャンベルの思想的土壌に流れ込んでいたことは、ほぼ確実である。

両者の思想は、論理と体験、普遍と個別、自己と世界といった、近代が抱え続けてきた二元論的な課題に対し、それぞれ東洋と西洋の知の伝統を背負いながら、独自の統合の道筋を提示した。西田は、東洋の「無」の論理を武器に、西洋哲学の存在論的限界を内側から突破しようと試みた。一方、キャンベルは、世界中の神話という人類共通の遺産を渉猟し、科学的合理主義の中で近代人が失った魂の全体性(wholeness)を取り戻すための地図を描き出した。

彼らの邂逅なき対話は、現代に生きる我々にとっても、依然として豊かで力強い示唆を与え続けている。グローバル化が進む一方で、文化的な断絶や個人の内面的な意味の喪失が深刻化する現代において、自己とは何か、意味ある人生とは何かを根源から問う彼らの試みは、その重要性を増している。西田が示した「絶対無の場所」という自己と世界の根源、そしてキャンベルが照らし出した「英雄の旅」という自己変容の元型は、我々が自らの生を深く生きるための、時代を超えた導きとなるだろう。

本報告書は、両者の関係性を「鈴木大拙」という一点に絞って分析したが、この探求はさらなる研究の可能性を開くものである。例えば、ユング心理学と京都学派の思想における「自己」概念の比較、あるいはフッサールの現象学とキャンベルの神話学における「経験」の構造分析など、未開拓の領域は数多く残されている。西田幾多郎とジョーゼフ・キャンベル。二人の偉大な思想家の邂逅なき対話は、今後も新たな知見を生み出す、尽きることのない豊かな鉱脈であり続けるに違いない。

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