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河合隼雄『無意識の構造』の読書感想と要点まとめ

主にユング派の精神分析学の概要がよくわかるということで、河合隼雄『無意識の構造』を読みました。 その中で面白かったことや、ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』を理解するのに重要そうなことをまとめておきます。

読んだのは、2017 年に出版された中公新書の改版。

心の構造

心は層構造になっている。

意識

意識の主体として自我がある。 自我とは、私が私であることである。自我は記憶や現在の観察にもとづいて意思決定を下し、自らの身体を動かす。 また、自我はある程度の統合性を有する。ひとつのまとまった人格として存在するためには、自らに矛盾を持つことが許されない。

しかし、意識の下には無意識の領域が広がっている。 最も浅い無意識に個人的無意識がある。さらにその下には普遍的無意識がある。

個人的無意識

個人的無意識は個人的に獲得されるものである。

例えば夫が浮気をしていることを知った女性が、物理的な外傷や機能不全なく聴覚を失った例がある。 これは、夫の浮気という心的外傷を意識の外に抑圧した結果である。 この心的外傷は無意識内に存在し続け、それに伴う情動は意識されないままに働き続けた。ついにはそれが身体的な症状へと転換し、ヒステリーを発生させた…と考えられる。

普遍的無意識(集合的無意識)

個人的無意識の下部には家族的無意識文化的無意識のような層もある。 そして最も深いところに普遍的無意識が存在する。 (ユングはこれらを総称して普遍的無意識と呼んでいることもある。)

普遍的無意識は、個人的に獲得されたものではなく、生来人類一般に普遍的なものである。

普遍的無意識は「もっぱら遺伝によって」継承される。

原型

普遍的無意識の中には原型がある。これは先験的に与えられている表象可能性であって、これそのものは意識に現れることはないし、その意味を知ることもできない。 しかし、これは原始心像(イメージ)として意識に表出する。

グレートマザー

例えばグレートマザーという原型がある。これは母性、包含、死と再生といった意味を伴って意識に現れる。

神話的なイメージとして把握されると、それは

  • ギリシャ神話における豊穣の女神デーメーテル
  • キリスト教におけるマリア
  • 仏教における観音菩薩
  • ギリシャ神話におけるヘカテ
  • インド神話におけるカーリー

のような形になる。

ある学校恐怖症児の見た夢として取り上げられていた例が興味深い。

自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いて行く。すると、大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、恐ろしくなって目が覚める。

地母神の像にも渦巻の模様があることが認められる。また、この少年は不登校に陥っていた間、壺を焼いていたという。壺もまた、その中に何でも入れ込み、そこから何でも出てくるという普遍的な地母神の象徴である。

ここで、この少年は実際の母親との関係のみならず、個人としての母親を超えた「母なるもの」と呼ぶべきような普遍的な存在との関わりが重要となっていることに注目したい。

ヴィレンドルフのビーナス

外的人格に相補的に伴う内的人格。生きられなかった反面。 ユングは

影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと――たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向――を人格化したものである

と述べている。

例えば真面目な研究者が商売をしている夢を見たりする。 この夢の告げているところは明瞭で、「あなたは影の A の強力を得て、思いがけないことができる」ということである。

アニマ

男性の心の中の女性像。人間は基本的に両性具有的である。 社会の期待に答え、男らしくあるために無意識に沈められた女性性がアニマとして人格化される。

アニマはエロスの原理を強調し、柔軟なムードを醸す。

アニマは特定の女性に投影されてエロスを引き起こすが、ここには 4 つの発展段階がある。

生物的な段階

性ということが強調され、肉体性が強い吸引力を持つ女性像として現れる。 夢の中では娼婦のイメージとして出現することが多い。

ロマンチックな段階

生物的アニマは誰でも良かったが、この段階になると女性を人格として認め、一個の人格を持った女性に対する愛が生じてくる。

霊的な段階

エロスは神聖な献身にまで高められ、性的な色合いを持たない。母でありながら処女でもある聖母マリアによって典型的に示される。

叡智の段階

パラドックスに満ちたアニマ。 男性に『真理探究の知性』や『禁欲的倫理の体得』を教え、男性性と女性性の結合やバランスを求める。

例えばアニマと上手く付き合うことができず、自分自身がアニマにとりつかれたアニマ男性になってしまうことがある。

このような人は、アニマのもつ激情の烈しさを武器として「強く」行動するが、アニマのもつ本来的な「弱さ」のためか、最後には自分のペルソナを失ってしまって、終わり、ということもしばしばあるようである。

この辺の話は『千の顔を持つ英雄』における英雄の旅の構成を思い出すと興味深い。 英雄は、「女神との遭遇」「誘惑する女」といったステージを通過して「父親との一体化」に至る。

これらの一連のステージが言っているのは、

  • 女神との遭遇
    • 自分の中のアニマに気づこう。
  • 誘惑する女
    • しかしそれに取り憑かれたら旅は終わりだ。
  • 父親との一体化
    • アニマと上手く付き合い、自分の中の男性像と女性像を統合するのだ。

ということなのかなと思った。

アニムス

女性の心の中の男性像。女性版アニマ。

アニムスはロゴスの原理を強調し、断定的な意見を形成する。

アニムスにも 4 つの発展段階がある。

力の段階

男性の肉体的な力強さを表す。

行為の段階

強い意志に支えられた勇ましい行為の担い手としての男性像。

言葉の段階

論理性や合理性を表す。

意味の段階

物事を説明するのみならず、そこに秘められた意味を表す。

例えば妻がアニムス像を夫に投影できない時、アニムスに対する期待は子供に向けられる。 この男の子は優等生や天才であることが期待される。ここに「教育ママ」の誕生ということになる。

感情によって色づけられたコンプレックス

なんらかの感情によって結合されている心的内容の集まりが無意識内に形成されている時、それを感情によって色づけられたコンプレックスと呼ぶ。

例えばある人が馬に蹴られた恐ろしい経験を持っており、かつ父親もこの人にとって恐ろしい存在であったとする。 そうなると、この人は意識の中では物事を動物、家族、木と知的に分類していたとしても、無意識の中では知的には結びつかない父親と馬が恐怖という感情によって結びついてしまう。

この連結は次々と拡大されていく。 馬に蹴られたときにその馬が松の木につながれていたり、父親が髭を持っていれば同じように髭のある先生へ、と恐怖によって物事が結合していく。

その結果として、松の木を見るとなぜか嫌な気分になる(意識的には何故嫌な気分になるのか説明が付かない)といったことが生じる。

graph TD
subgraph 意識下では知的なカテゴリ分けができるが
木
動物
家族
他人
end

subgraph 木
杉
松

end
subgraph 動物
牛
馬
end
subgraph 家族
母
父
end
subgraph 他人
吉田太郎
先生
end


父-.-|似てる|先生
松-.-|関連|馬

subgraph 無意識下では心的外傷による結びつきが発生している
恐怖
end

松 & 馬 & 父 & 先生 -.- 恐怖

夢は意識と無意識の相互作用によって生じるものである。ユングは無意識の意識に対する補償性を常に強調しているが、夢は意識に対する補償機能を有していることが多い。

例えば、意識の上では自分を担当している精神分析家を「きちんとした人」だと思っていると、夢でその助手が現れて「ずいぶんサボりのところもある」と言ったりする。

実は直近で私もこれを強く実感した出来事がある。

先日まあまあ頑張って資格を取ったのだが、その日の夜見た夢はこんな感じだった。

ショッピングモールらしきところに友人と居た。彼らは高校の頃の友人である。 歩いていると、自分より彼らの方が背が高い気がした。 足元を見ると上り坂のスロープになっていて、彼らが前方に居るから背が伸びたように見えたのだった。 ここで目が覚めた。

自我よ、一つ資格を取ったくらいで浮かれてんじゃないぞ。お前の高校の頃の同級生はお前より立派に活躍してるんだという無意識からのメッセージを感じずにはいられなかった。

自己のシンボル

自己もテクニカルタームである。ユングは、人間の意識も無意識も含めた心の全体性に注目し、そのような心全体の統合の中心としての自己の存在を仮定する。 つまり、自我が意識の上に載っている点であるのに対して、自己は意識も無意識もひっくるめた心全体の中心である。

自己は無意識界に存在しているので、それ自身を知ることはできない。しかし、自己のある側面をシンボルという形で把握することができる。

老賢者

まったく常識と隔絶した助言や貴重な品を与えてくれる。 要はボグラーの言うところのメンターである。

ユングは自身の夢に現れた老賢者フィレモンについて、以下のように語っている。

突然、右側から翼をもった生物が空を横切って滑走してきた。それは牡牛の角をつけたひとりの老人であるのを私は見た。 彼は一束の四つの鍵をもっており、そのうちのひとつを、あたかも彼がいま、錠をあけようとしているかのように握っていた。 彼はかわせみのような、特徴的な色をした翼をもっていた。

ユングの老賢者フィレモン

始原児

やはり、常識と隔絶した知恵を与えてくれるメンターである。 しかし、老賢者の場合よりも、その未来への生成の可能性や純粋無垢な状態などに強調点がおかれている。

個性化

ユングは自己実現の過程を個性化の過程と呼ぶことが多い。これは、他から識別される独自な個性を形成することである。

普遍的無意識の原型は人類に共通でも、その個人内の意識への現れ方は個人によって異なる。 その個人内の実現傾向と外界からの要請の中で、人はその人なりの個性を形成していく。

しかしそれは危険に満ちた道である。

ユングは自己実現の道は、あれかこれかではなく、あれもこれもであるという。 しかし、われわれは簡単にあれもこれもに手出しするとき、結局はあれもこれも失うことになることを、よくよく知っておかねばならない。 それはとほうもない苦しみと努力によってこそ、なし遂げられることなのである。 P159

個性化の道を歩むには、我々は自分の内界に目を向けなければならない。しかしそれは、自分の感情や心境をひねくりまわすことではない。

我々の問題とする内界は、自我によってコントロールできないあちらの世界である。

無意識の真相における体験にもっともぴったりのものは、昔話や神話などにある他界の話であろう。 それらには、他界の不思議さがいろいろと述べられ、そこにおける危険性も十分に語られている。 時間、空間による定位が不能なこともそっくりである。 他界へ旅立って帰れなかった人、他界から帰ってきたものの、この世には適応しがたくなっていた人の話もある。 個性化の道は恐ろしい道である。

やはり、ジョーゼフ・キャンベルの「英雄の旅」をより一層理解できそうな考え方だ。 英雄が赴く非日常の世界とは、本質的には英雄の内界と同じなのだろう。 そこであらゆる原型に出会い、個性化の過程に成功して帰ってくることで、英雄は「生きる自由」を得る。

布置(コンステレーション)と共時性(シンクロニシティ)

ここから話は若干オカルティックな方向に進む。

コンステレーション

コンステレーションとは「星座」の意味。夜空に浮かぶ星の一つ一つは全く関係ないが、地球から見るとき、そこにオリオン座やらさそり座やらといった星座を見出すことができる。

これと同様に、論理的には別々に起こった事柄だが、その人にとっては大きな意味を持った出来事のめぐり合わせというものが発生することがある。これを布置(コンステレーション)と呼ぶ。

共時性(シンクロニシティ)

これを更に発展させて、論理的には因果関係で結びようもない出来事の間にも、因果を超えた何らかの仕組みが働いてその出来事が生じているのだと考えることもできる。これを共時性(シンクロニシティ)と呼ぶ。

例えば予知夢はシンクロニシティの一つである。

これについては、『無意識の構造』著者、河合隼雄さんの最終講義の動画を見るのが良いだろう。

この動画で紹介されている、UFO の話が興味深い。

ユングは UFO の目撃情報が同時に大量に発生することに関心を持った。 UFO の有無それ自体に意味は無く、「世界中で複数の人が UFO の出現を報告している」という事実の背景に注目しなければならない。 UFO としてコンステレーションするに至ったどんな原型的要素が蠢いているのかを分析するのが現代の文化を理解するのに役立つのではないか、と結論付けている。

コンステレーションを読むことが時代の文化の理解に役立つ。

要点まとめ

ユングの言う普遍的無意識とは?

個人的無意識の下部には`家族的無意識`や`文化的無意識`のような層もある。そして最も深いところに普遍的無意識が存在する。(ユングはこれらを総称して普遍的無意識と呼んでいることもある。) 普遍的無意識は、個人的に獲得されたものではなく、生来人類一般に普遍的なものである。

コンプレックスとは?

なんらかの感情によって結合されている心的内容の集まりが無意識内に形成されている時、それを`感情によって色づけられたコンプレックス`と呼ぶ。 例えばある人が馬に蹴られた恐ろしい経験を持っており、かつ父親もこの人にとって恐ろしい存在であったとする。 そうなると、この人は意識の中では物事を動物、家族、木と知的に分類していたとしても、無意識の中では知的には結びつかない父親と馬が恐怖という感情によって結びついてしまう。

コンステレーションとシンクロニシティとは?

コンステレーションとは「星座」の意味。夜空に浮かぶ星の一つ一つは全く関係ないが、地球から見るとき、そこにオリオン座やらさそり座やらといった星座を見出すことができる。 これと同様に、論理的には別々に起こった事柄だが、その人にとっては大きな意味を持った出来事のめぐり合わせというものが発生することがある。これを`布置(コンステレーション)`と呼ぶ。 これを更に発展させて、論理的には因果関係で結びようもない出来事の間にも、因果を超えた何らかの仕組みが働いてその出来事が生じているのだと考えることもできる。これを`共時性(シンクロニシティ)`と呼ぶ。

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